匣 ―Which?―
(体験者:柊(ヒイラギ))
「……これは一体、どういうことなんだろうねぇ……」
ヒイラギ少年は思いため息をついた。
目の前には、恋人の修羅場でもなんでもなく、ふたつの箱。しかしそれも詮のない事だろう。
彼の前には全く同じ外装の箱がふたつ、あったからだ。本来その箱はひとつしか無い筈、だったのに、何故か先程戸棚を開けた時にはふたつに増えていたのである。全くもって摩訶不思議な現象に、ヒイラギはまた息を深く吐いた。しかし彼が溜息を吐いた原因は、残念だがそれだけでは無い。
“かりかりかりかりかりかりかり”
内側から何かが引っ掻いているかのように、ふたつの箱は僅かに音を立てて動いているのだ。
(誰かが、動物でも閉じ込めたのか)
ここはヒイラギの自室では無く、教室でもなく、ミステリ(この場合は推理物の意味を指す)同好会の部室(暗黙の了解)である。だから会員の誰かが悪戯心で同じ箱を用意し、ふたつの箱の中に小動物を閉じ込めたという可能性もある。
だが、どうもそれと断定するには難しかった。
(もし悪戯ならば、もっと効果的に、派手なものをやるだろうに)
同好会メンバーは皆、頭を使う小説が好きな故か直接的に殴る蹴る肉体的攻撃よりも、斬新で技巧に富んだ精神的攻撃を得意とする部類に入る生徒ばかりなのだ。だから悪戯ひとつにしたって派手でかなり手の込んだ、計画的なものが多い。
そうであるからして、戸棚の奥にしまい込まれていて既に埃まで被った箱などという、気付き辛いものにそんな行き当たりばったりな細工を仕掛けるとは考え難いのだ。
勿論、この部屋には会員しか出入りしてはいけないという決まりはあれど、実際は隙を見れば誰でも出入り可能な状態だ。他の生徒がやったという可能性もある。だが嫌がらせや悪戯に、こんな戸棚の奥の箱に目を付けるだろうか。
(それならばこれは……)
蓋の上の蝶蝶結び、箱の中心を横切る臙脂色の紐をじっと順番に見つめながらヒイラギが思考を巡らせていれば、不意にかりかりと引っ掻く音に、別の音が混ざり始めた。
“にゃあーにゃあ、にゃあ”
(猫、か)
そう判断して、更にヒイラギは思考を深める。
(悪戯のために態態動物を閉じ込めるような人は……少なくともメンバーにはいないはず)
だが、何がどうであれ中に動物がいるらしいという事は事実である。
ヒイラギはそれを助けてやろうと、先ずはむかって右側の箱に手を伸ばしたのだが。ふと、その手は箱に触れるか触れないかのところで止まってしまった。
ある疑問が、彼の脳裏に掠めたのだ。
(これは、本当に猫なのか)
そう疑問を持った理由は、ヒイラギ自身とて分からない。鳴き声からして、分かりやすいくらいに猫だと分かるし、そうとしか判断出来ないとも思われがちである。
だが、ある筈の無いふたつ目の箱の存在といい、今はなんともおかしな状況だ。……そうでなくとも現在、学園の中には不可思議な出来事が満ち溢れているのだから。
もしかしたら、という可能性もある。しかし、これが誰かの手による悪戯で、中に本物の猫がいるという可能性も、無いわけではないのだ。
ヒイラギは箱をじっと見つめたまま、考える。
(本物の猫か、もしくは猫のふりをした何か、か……)
いくら思考を掻き回し整理しても、正解に辿り着けるわけが無いと、ヒイラギは理解していた。
だというのに考えるのを止めないのは、箱を開けて答えを確かめる事に躊躇いを感じているからであろう。
中にいるのは猫か、それとも他の何か――。
(あぁ、もうやめよう)
遂に少年は思考作業を放棄した。ふたつの箱をひょいと腕に抱えて、戸を開けて庭へと出ていく。
(考えても答えが分からないことを、いくら考えていても無駄なのだし)
すたすたすたと迷い無くヒイラギが歩く先には、細い煙がひと筋昇っている。
部室に向かう時に見つけたそれが、まだ続いている事を知り、彼は安堵した。
「あ、柊くん! どうかしたの?」
煙の下には、定時制生徒兼校内雑務係のミモザがいた。
目に痛いほどの煙をもうもうと立ち昇らせ、彼の前にある紙屑の山がある事から、どうやら彼はそれらを燃やしていると分かる。
「ミモザさん、すいませんが、これも一緒に燃やして頂けませんか?」
「いいよー」
ヒイラギがミモザに歩み寄ながら腕の中の箱を僅かに持ち上げると、肩と腹が透けた少年はにこやかに答えた。
「ありがとうございます」
礼を言いながら、ヒイラギは火の中に箱をふたつとも投げ入れてしまう。箱や紐が乾燥していたせいか、箱は直ぐに炎に包まれた。
(別に、たいしたものも入っていなかったような気がするし)
燃える箱からはまだ、にゃあにゃあ。くくぐもったか細い、鳴き声が聞こえてくる。
じっと燃やしてくれと言った箱を見つめているヒイラギに、ミモザがおずおずと問いかけた。
「……燃やしちゃって大丈夫なんだよね?」
そう言いながら、心配そうにちらちらとミモザは火の中の箱へと視線を向ける。
そんな彼に視線を移した典型的な東洋の顔の少年は、静かにこう言った。
「ええ。何も入っていませんから」
彼の、不気味なまでの静けさを湛えたその言葉を聞いたミモザは、
「そっか」
可燃物へちらりと一度視線をやってから笑って、ヒイラギに背を向け、再び火の中へと紙屑を投げ入れ始める。
(これで、悩む必要は無くなった)
自分の出した安直な答えにほんの少し呆れながらも、ヒイラギは思考を続ける。
(“生きた本物の猫”という可能性も、無くなったしな)
炎はめらめらと勢いを増しながら、紙屑を、そして箱を焼き、灰へと変化させていく。
箱の中からは、まだにゃあにゃあと鳴く声が聞こえた。
「……これは一体、どういうことなんだろうねぇ……」
ヒイラギ少年は思いため息をついた。
目の前には、恋人の修羅場でもなんでもなく、ふたつの箱。しかしそれも詮のない事だろう。
彼の前には全く同じ外装の箱がふたつ、あったからだ。本来その箱はひとつしか無い筈、だったのに、何故か先程戸棚を開けた時にはふたつに増えていたのである。全くもって摩訶不思議な現象に、ヒイラギはまた息を深く吐いた。しかし彼が溜息を吐いた原因は、残念だがそれだけでは無い。
“かりかりかりかりかりかりかり”
内側から何かが引っ掻いているかのように、ふたつの箱は僅かに音を立てて動いているのだ。
(誰かが、動物でも閉じ込めたのか)
ここはヒイラギの自室では無く、教室でもなく、ミステリ(この場合は推理物の意味を指す)同好会の部室(暗黙の了解)である。だから会員の誰かが悪戯心で同じ箱を用意し、ふたつの箱の中に小動物を閉じ込めたという可能性もある。
だが、どうもそれと断定するには難しかった。
(もし悪戯ならば、もっと効果的に、派手なものをやるだろうに)
同好会メンバーは皆、頭を使う小説が好きな故か直接的に殴る蹴る肉体的攻撃よりも、斬新で技巧に富んだ精神的攻撃を得意とする部類に入る生徒ばかりなのだ。だから悪戯ひとつにしたって派手でかなり手の込んだ、計画的なものが多い。
そうであるからして、戸棚の奥にしまい込まれていて既に埃まで被った箱などという、気付き辛いものにそんな行き当たりばったりな細工を仕掛けるとは考え難いのだ。
勿論、この部屋には会員しか出入りしてはいけないという決まりはあれど、実際は隙を見れば誰でも出入り可能な状態だ。他の生徒がやったという可能性もある。だが嫌がらせや悪戯に、こんな戸棚の奥の箱に目を付けるだろうか。
(それならばこれは……)
蓋の上の蝶蝶結び、箱の中心を横切る臙脂色の紐をじっと順番に見つめながらヒイラギが思考を巡らせていれば、不意にかりかりと引っ掻く音に、別の音が混ざり始めた。
“にゃあーにゃあ、にゃあ”
(猫、か)
そう判断して、更にヒイラギは思考を深める。
(悪戯のために態態動物を閉じ込めるような人は……少なくともメンバーにはいないはず)
だが、何がどうであれ中に動物がいるらしいという事は事実である。
ヒイラギはそれを助けてやろうと、先ずはむかって右側の箱に手を伸ばしたのだが。ふと、その手は箱に触れるか触れないかのところで止まってしまった。
ある疑問が、彼の脳裏に掠めたのだ。
(これは、本当に猫なのか)
そう疑問を持った理由は、ヒイラギ自身とて分からない。鳴き声からして、分かりやすいくらいに猫だと分かるし、そうとしか判断出来ないとも思われがちである。
だが、ある筈の無いふたつ目の箱の存在といい、今はなんともおかしな状況だ。……そうでなくとも現在、学園の中には不可思議な出来事が満ち溢れているのだから。
もしかしたら、という可能性もある。しかし、これが誰かの手による悪戯で、中に本物の猫がいるという可能性も、無いわけではないのだ。
ヒイラギは箱をじっと見つめたまま、考える。
(本物の猫か、もしくは猫のふりをした何か、か……)
いくら思考を掻き回し整理しても、正解に辿り着けるわけが無いと、ヒイラギは理解していた。
だというのに考えるのを止めないのは、箱を開けて答えを確かめる事に躊躇いを感じているからであろう。
中にいるのは猫か、それとも他の何か――。
(あぁ、もうやめよう)
遂に少年は思考作業を放棄した。ふたつの箱をひょいと腕に抱えて、戸を開けて庭へと出ていく。
(考えても答えが分からないことを、いくら考えていても無駄なのだし)
すたすたすたと迷い無くヒイラギが歩く先には、細い煙がひと筋昇っている。
部室に向かう時に見つけたそれが、まだ続いている事を知り、彼は安堵した。
「あ、柊くん! どうかしたの?」
煙の下には、定時制生徒兼校内雑務係のミモザがいた。
目に痛いほどの煙をもうもうと立ち昇らせ、彼の前にある紙屑の山がある事から、どうやら彼はそれらを燃やしていると分かる。
「ミモザさん、すいませんが、これも一緒に燃やして頂けませんか?」
「いいよー」
ヒイラギがミモザに歩み寄ながら腕の中の箱を僅かに持ち上げると、肩と腹が透けた少年はにこやかに答えた。
「ありがとうございます」
礼を言いながら、ヒイラギは火の中に箱をふたつとも投げ入れてしまう。箱や紐が乾燥していたせいか、箱は直ぐに炎に包まれた。
(別に、たいしたものも入っていなかったような気がするし)
燃える箱からはまだ、にゃあにゃあ。くくぐもったか細い、鳴き声が聞こえてくる。
じっと燃やしてくれと言った箱を見つめているヒイラギに、ミモザがおずおずと問いかけた。
「……燃やしちゃって大丈夫なんだよね?」
そう言いながら、心配そうにちらちらとミモザは火の中の箱へと視線を向ける。
そんな彼に視線を移した典型的な東洋の顔の少年は、静かにこう言った。
「ええ。何も入っていませんから」
彼の、不気味なまでの静けさを湛えたその言葉を聞いたミモザは、
「そっか」
可燃物へちらりと一度視線をやってから笑って、ヒイラギに背を向け、再び火の中へと紙屑を投げ入れ始める。
(これで、悩む必要は無くなった)
自分の出した安直な答えにほんの少し呆れながらも、ヒイラギは思考を続ける。
(“生きた本物の猫”という可能性も、無くなったしな)
炎はめらめらと勢いを増しながら、紙屑を、そして箱を焼き、灰へと変化させていく。
箱の中からは、まだにゃあにゃあと鳴く声が聞こえた。
作品名:匣 ―Which?― 作家名:狂言巡