大切にする男
「またですか……」
松下は三十代前半のサラリーマンだが、営業途中などによく鍵を拾う。今回でそれは五度目だった。その度に松下は交番に届けに行き、書類を書かされるのだった。
しかし、松下がため息をついたのはそれが原因ではない。彼は物も人も大切にする男だったのだ。つまり、「鍵を落とした」とよく人は言うが、それを聞いた鍵屋の気持ちを考えてしまうのだ。
自分の作った鍵が簡単に落とされてしまう。それがどんなに鍵屋にとって悲しいことだろう、と。もちろん、それがあるからこそ鍵屋は次の鍵を注文され儲かるのだが、それでもやはり落ち込むに違いない。
鍵は鍵職人の作品だ。つまり、子供のようなものであろうと松下は考えていた。人生で何度も鍵を拾ううちに、鍵に愛情を持つようになったのである。
「さて、どうしたものですかね……」
松下は鍵を右手に持った。その鍵には名前を書くスペースがあるキーホルダーが付けられており、そこには『佐藤』と黒文字で書かれていた。
「鍵に名前なんか書くようなまぬけな人だから落とすんでしょうね……」
松下は落胆しながらこう思った。
(今回は届けないでおこう。)
そして、松下はある行動に出た。
松下は結婚相談所を訪れた。電話帳でそれを探し、一番最初に書かれていた所にやってきたのだ。小さな応接室に通された松下は、皺の刻まれた厚化粧の女性と向かい合っていた。女性は高い声で用紙に書かれたことを確認した。
「松下義雄さんとおっしゃるのね。年齢は三十二歳。職業、製紙会社の営業担当。年収は三百万、と」
そして、こう付け加えた。
「わりと整った顔をされているのね。太っていないし。外見は年相応といった感じね。でも、落ち着いた雰囲気をしてるわねえ」
「そうですか」
松下は褒められたことに対しては興味がないように淡々と答えた。表情はあまり変えない。すると、女性はにっこり笑いながら何度も繰り返したであろう質問をした。
「好みの女性はどんなタイプかしら?」
これに対して松下はこう答えた。
「『佐藤』という女性がいいのです」
「は?」
女性は一瞬、きょとんとした。
「佐藤?」
松下はゆっくりとうなずいて、もう一度言った。
「どんな女性でもかまいません。ただ、『佐藤』という名前の女性と知り合いたいのです」
松下は、いぶかしげな視線と不思議なものでも見たような表情にも動じることはなかった。
松下が紹介してもらったのは、『佐藤真理子』という四十七歳の女性だった。電話で連絡を取り合い駅で待ち合わせたのだが、そこに現れたのは今まで独身だったことを納得させられるような外見の持ち主だった。
「あのう、松下さんですか?」
「そうです」
真理子は夏でもないのに汗をかいていた。服が体に食い込んでいて、上着の花柄が伸びている。
「初めまして、佐藤真理子です」
「松下義雄です」
厚手のハンカチで汗を拭きながら、ふうふう言っている真理子は急いできたわけを話した。
「ごめんなさい、遅れちゃって。服を選ぶのに時間がかかっちゃった」
「かまいませんよ」
その柔らかな微笑みに、真理子の胸はときめいた。そして不思議とこの男なら大丈夫だという気がしたのである。
真理子は今まで何度も相談所に紹介してもらった男性に振られ続けてきた。だが、それがここで終わるような予感がするのだ。真理子はわくわくした。
「今日はどこへ連れて行ってくれるの?」
その質問に松下はこう返した。
「映画にでも行こうと思っているんですがね。その前に一つ質問があるのですがいいですか?」
「なに?」
真理子は松下が財布から出した鍵を見せられた。あの『佐藤』と書かれた鍵である。
「これは、あなたの家の鍵ではありませんか?」
「いいえ、違うわ。これ、どうしたの?」
首をかしげた真理子に松下は軽くうなずいた。
「そうですよね。いえ、なんでもありません。では行きましょう」
「ええ、そうね。映画は何を見るの?」
真理子にとって、そんな鍵などどうでもよかった。それより、この男は初めて私に優しくしてくれる。それが嬉しかったのだ。
初めてのデートは何事もなく順調に終わった。そして、二人は何度かのデートを重ねたのである。
ホテルの最上階で夜景を見ながら食事をした日、松下は真理子から妊娠したことを告げられた。それを待っていたとでも言うかのように松下は指輪の箱を取り出してプロポーズをした。その中には小ぶりのダイヤが輝いていた。
「僕と結婚してください」
「ええ、喜んで」
すると、松下は一拍置いた。
「ただ、一つだけ了解してほしい条件があります」
「何かしら?」
「それは……」
その条件を聞いた真理子は、おかしな人ね、と笑ってそれを受け入れた。
数ヶ月経って、松下と真理子の新居が完成した。ありふれたごく普通の一軒家だ。壁の色はベージュ。屋根と扉は茶色である。ただ、その表札が普通の家庭とは少し違っていた。表札にはこう書かれていた。
『佐藤』
婿養子に入った松下は佐藤義雄になっていた。そして佐藤はポケットから鍵を取り出した。
「あら、その鍵、どこかで……」
真理子は引っかかるものを感じたが、なかなか思い出せないようだった。佐藤はその鍵を鍵穴に差し込んだ。
「この鍵に合わせてもらったんですよ……」
真理子はくすりと笑った。
「そう。やっぱり変な人!」
お腹の大きくなった真理子は佐藤の手を握った。そして開かれた扉の中へ、一緒に入っていったのである。