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聖林寺十一面観音立像『心を耕す』

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『聖林寺十一面観音立像 心を耕す』

古の頃、仏教は今では想像がつかないほど生活に密着したものであった。日々の生活の支えとして、仏教があった。仏教の教えを『眼に観えるもの』にしたのが、仏像である。

奈良、桜井市にある聖林(しょうりん)寺。聖林寺は藤原鎌足の長子が建てた由緒ある寺であり、そこには有名な国宝十一観音立像がある。
聖林寺十一面観音立像には、安らぎを与えてくれるような深い何かある。宇宙のような果てしなく、そして包み込むようなものがある。そこに身を鎮めたくなるような暖かさを感じさせてくれる。
千年以上の時を経て、今、ここにある。その事実がとてつもなく素晴らしいものに感じる。あるのは単なる木製の像ではない。もっと別のものだ。言葉ではうまく言い表せない、何かだ。

和辻哲郎は聖林寺十一面観音立像を”偉大な作”と褒めた。別の者は”天平第一の仏像”と絶賛した。確かにそうだ。まるで女性のように優美である。まるで何もかも知り尽くしていて、それでいて乙女のようなある種の清純さというものを感じさせる。始めであり、終わりでもあるような不思議な笑み。それは臭泥に咲く蓮の花なもの。真理とはこのようなものを指すのであろうか? 分からぬ、考えれば考える程、頭の中が混乱してくるが、ただ見ているだけなのに心が和む。

だが、考えてみると妙な話だ。人々の生活が必ずしも楽ではなかった時代、このようなものを生み出す者がいたとは。日々、地獄のような業火が地を覆い、人殺しが闊歩し、悪党が子供をさらい、盗賊が笑う。そんな時代であったはずなのに、かくも優しいものを作るとは……。地獄をみた者のみ天国について語ることができる、そういった者がいる。それと同じようなことがこの作者にも言えるのかもしれない。

 じっと眺めていた。
 ふと、"全ては無に帰る"という言葉が浮かんだ。哲学者パスカルの言葉だ。苦しみに満ちた時も、幸福な時も全て過ぎ去る。生きている時間は休むことなく死に向かう。その時、分かった。この仏像は死について語っていたのだと。"死"、いや正確にいえば、"生が停止した聖(=永遠)の世界について"である。そして、それは差し延べた手の中にあった。そう確信した。

 さらにブッタのこんなエピソードを思い出した。
 ブッタが、農繁期にバラモンの村を托鉢(たくはつ)していると農夫が、「あなたも耕せ」となじった。すると「私も耕している」と答えた。農夫は「農具も持たずに田が耕せるか?」と問うと、「私は私の心を、そしてあなたの心を耕している。耕すことを怠ると、土が固くなって、種の育ちが悪かろう。心も固くなになるとどうなる? 田や畠(はたけ)と同じだ。だから私は法(おしえ)という農具で、あなたと私の心を柔軟になるように耕す」と答えた。
 
 聖林寺十一面観音立像も同じように人の心を耕している。