さいごの声
会社を辞めた。
大学を卒業してから、十年間お世話になった会社だ。
特に大きな貢献はできなかったけれど、特別に足を引っ張ったわけでもない。
尊敬できる上司とも、気が置けない同期とも、可愛い後輩とも出会えた。
だからこの十年間を後悔してはいない。
だったら、なぜ辞めるのか?
あえて言うならば、僕が少しだけ変わったから、そういうことだと思う。
もう三十二歳。いまさら人生に劇的な変化を求めようとは思わない。
だけど、まだ三十二歳。自分が生きている意味や生きる目的を、もう一度考え、少しだけ人生の軌道修正をするには、まだ遅すぎる年齢ではないだろう。
僕にそう思わせてくれたのは、僕だけが聞くことができる声。いや、――僕だけに聞こえてしまう声だ。
それを最初に耳にしたのは、小学二年生、七歳のときだった。
◎
父方の祖父が脳出血で急逝したという報を受け、僕達家族は、川崎から父の実家がある岡山に駆けつけた。
三歳の時以来、つまり僕にとっては初めてに等しい父の実家は、茅葺の大きな平屋だった。築百年ほどという重厚な旧家は、昼間といえども屋内が薄暗く、七歳の僕にとっては、趣を感じる余裕などもちろんない、ただ広く冷たく薄気味悪い場所だった。
祖父は、屋敷の最も奥、二十畳ほどの広い和室の真ん中に敷かれた布団の上で寝ていた。
顔は白い布のようなもので覆われている。
つまりそれが、単に眠っているのではないことを表しているんだろう……と、僕はどこか冷めた気持ちで祖父を見ていた。
祖父との対面は四年ぶり、時々電話で話してはいたけれど、当時の僕にとって祖父は、<大切な人ランキング>で、母、父、友達のよっくん、良一、杉チン、晴彦、美土里ちゃん、そして担任の青木先生の次くらいにやっと祖母と共に登場するくらいの存在だった。
「裕ちゃん、おじいちゃんに会うの久しぶりじゃろう。おじいちゃんの顔、ねきぃ寄って見てやってな」
両親と軽い挨拶を交わし長旅の労をねぎらうと、祖母は僕の手を握り、祖父の枕元に誘導した。そして僕たち二人は、祖父の顔が見える位置に並んで跪いた。両親は沈痛な表情を浮かべながら、後ろに控えている。
僕は何だか怖くなって、助けを求めるように母を振り返った。母は無言で首を振り――しっかりしなさい――と目だけで僕を励ました。
祖母がゆっくりと白い布をめくる。
こわごわ覗き込んだ祖父の顔には、どことなく見覚えがあったが、それよりもその白く蝋のように滑らかな肌の質感は、学校の美術室の隅っこに置かれてある外人の石膏像にそっくりだった。
その発見を母に告げようと、再び振り返ろうとした時だ。
『たしか、博多明太子があったのー』
その声には確かに聞き覚えがあった。
紛れもない祖父の声だ。季節の変わり目毎に受話器の中から聞こえてくる、低く擦れた声。
僕は驚いて思わず祖父の顔を覗きこんだ。
『たしか、博多明太子があったのー』
口は閉じられたまま。でも、声は確かに祖父のものだった。
僕の横にいる祖母は何も聞こえなかったかのように神妙な面持ちで、ただ祖父の死に顔を見つめている。
――これはなに?
「昨日の夜、一人で起きてきたらしく、台所の前の廊下で倒れとったのよ」
祖母が、祖父を見つめたまま、僕に静かに話しかける。
「何しようと、しょうたんじゃろうねえ、おじいちゃん」
「水でも飲もうとしょうたんじゃないか」
父さんは祖父母と話すときは岡山弁になる。
「枕元にいっつも、ミネラルウォーターを用意してある」
「だったら、目が冴えて寝れんよぉなったから、酒でも飲もうとしょうたんかのー」
「じいちゃん、血圧に悪いけえって、最近は酒を控えとった。大酒飲みのお前とは違う」
『たしか、博多明太子があったのー』
祖母の言葉に重なるように、三度目の声が聞こえた。
僕は目をぎゅっと瞑って、膝の上で掌をきつく握った。
「……はかためんたいこ」
無意識の内に口が開いていた。
「おじいちゃん……はかためんたいこが食べたかったんだと……思う」
祖母の目が大きく見開かれ、僕を正面から見据える。
「あんた、どしてそれを……」
説明なんて、できるわけがない。
「一昨日、福岡の清さんから贈られてきたんよ」
祖母の興奮した声は、父に向けられたものだった。
「博多明太子がか?」
「ああ、茂蔵さんの好物じゃろう、ゆって」
祖母が僕に顔を寄せて柔らかく質した。
「裕ちゃん、博多明太子が欲しいって、おじいちゃんがゆうとるんかのう」
僕は無言で大きく頷いた。
祖母の顔中の皺が深くなって、細い両腕が僕の背中を抱いた。
「おじいちゃんは明太子が食うとうて、夜中に起きたんか。そうかそうか。……血圧に悪いのも知っとるうせに。そんぎゃぁに食うたかったんか。どうしょうもないおじいちゃんじゃのう」
祖母は、僕を抱いたまま、何度も頷きを繰り返していた。
「裕ちゃん、教えてくれてありがとうねえ」
祖母は半分笑って、そして残りの半分は泣いていた。
でも僕は祖母に「ありがとう」と言われたことで、張り詰めていた緊張の糸をやっと緩めることができた。
祖母の温かな腕に身体を預けていると、またあの声が小さく聞こえてきた。
『たしか、博多明太子があったのー』
その声は何故か子守唄のように優しく、とても懐かしく感じられた。懐かしくて、いまはとても哀しくて……鼻の奥がむずむずしてくるような。
僕の頭の上に大きく硬い掌が乗せられた。
仰ぎ見ると、大きな父が僕を見下ろしていた。両目を真っ赤に腫らしながら。
「裕介、お前、じいちゃんの最後の声を聞いてくれたのか。そうか、ようやったぞ。上出来じゃ」とわざと乱暴に言って、僕の頭を大きく左右に揺する。
父は照れを隠すときに、いつもこんなことをした。
――さいごの声。
あの日の僕は、その意味を深く考えることもなく、旅の疲れもあったのか、いつしか鼻を啜りながら、祖母の腕の中で眠りこけていた。
祖父の棺には、木箱に入った高級博多明太子が一つ入れられた。
大学を卒業してから、十年間お世話になった会社だ。
特に大きな貢献はできなかったけれど、特別に足を引っ張ったわけでもない。
尊敬できる上司とも、気が置けない同期とも、可愛い後輩とも出会えた。
だからこの十年間を後悔してはいない。
だったら、なぜ辞めるのか?
あえて言うならば、僕が少しだけ変わったから、そういうことだと思う。
もう三十二歳。いまさら人生に劇的な変化を求めようとは思わない。
だけど、まだ三十二歳。自分が生きている意味や生きる目的を、もう一度考え、少しだけ人生の軌道修正をするには、まだ遅すぎる年齢ではないだろう。
僕にそう思わせてくれたのは、僕だけが聞くことができる声。いや、――僕だけに聞こえてしまう声だ。
それを最初に耳にしたのは、小学二年生、七歳のときだった。
◎
父方の祖父が脳出血で急逝したという報を受け、僕達家族は、川崎から父の実家がある岡山に駆けつけた。
三歳の時以来、つまり僕にとっては初めてに等しい父の実家は、茅葺の大きな平屋だった。築百年ほどという重厚な旧家は、昼間といえども屋内が薄暗く、七歳の僕にとっては、趣を感じる余裕などもちろんない、ただ広く冷たく薄気味悪い場所だった。
祖父は、屋敷の最も奥、二十畳ほどの広い和室の真ん中に敷かれた布団の上で寝ていた。
顔は白い布のようなもので覆われている。
つまりそれが、単に眠っているのではないことを表しているんだろう……と、僕はどこか冷めた気持ちで祖父を見ていた。
祖父との対面は四年ぶり、時々電話で話してはいたけれど、当時の僕にとって祖父は、<大切な人ランキング>で、母、父、友達のよっくん、良一、杉チン、晴彦、美土里ちゃん、そして担任の青木先生の次くらいにやっと祖母と共に登場するくらいの存在だった。
「裕ちゃん、おじいちゃんに会うの久しぶりじゃろう。おじいちゃんの顔、ねきぃ寄って見てやってな」
両親と軽い挨拶を交わし長旅の労をねぎらうと、祖母は僕の手を握り、祖父の枕元に誘導した。そして僕たち二人は、祖父の顔が見える位置に並んで跪いた。両親は沈痛な表情を浮かべながら、後ろに控えている。
僕は何だか怖くなって、助けを求めるように母を振り返った。母は無言で首を振り――しっかりしなさい――と目だけで僕を励ました。
祖母がゆっくりと白い布をめくる。
こわごわ覗き込んだ祖父の顔には、どことなく見覚えがあったが、それよりもその白く蝋のように滑らかな肌の質感は、学校の美術室の隅っこに置かれてある外人の石膏像にそっくりだった。
その発見を母に告げようと、再び振り返ろうとした時だ。
『たしか、博多明太子があったのー』
その声には確かに聞き覚えがあった。
紛れもない祖父の声だ。季節の変わり目毎に受話器の中から聞こえてくる、低く擦れた声。
僕は驚いて思わず祖父の顔を覗きこんだ。
『たしか、博多明太子があったのー』
口は閉じられたまま。でも、声は確かに祖父のものだった。
僕の横にいる祖母は何も聞こえなかったかのように神妙な面持ちで、ただ祖父の死に顔を見つめている。
――これはなに?
「昨日の夜、一人で起きてきたらしく、台所の前の廊下で倒れとったのよ」
祖母が、祖父を見つめたまま、僕に静かに話しかける。
「何しようと、しょうたんじゃろうねえ、おじいちゃん」
「水でも飲もうとしょうたんじゃないか」
父さんは祖父母と話すときは岡山弁になる。
「枕元にいっつも、ミネラルウォーターを用意してある」
「だったら、目が冴えて寝れんよぉなったから、酒でも飲もうとしょうたんかのー」
「じいちゃん、血圧に悪いけえって、最近は酒を控えとった。大酒飲みのお前とは違う」
『たしか、博多明太子があったのー』
祖母の言葉に重なるように、三度目の声が聞こえた。
僕は目をぎゅっと瞑って、膝の上で掌をきつく握った。
「……はかためんたいこ」
無意識の内に口が開いていた。
「おじいちゃん……はかためんたいこが食べたかったんだと……思う」
祖母の目が大きく見開かれ、僕を正面から見据える。
「あんた、どしてそれを……」
説明なんて、できるわけがない。
「一昨日、福岡の清さんから贈られてきたんよ」
祖母の興奮した声は、父に向けられたものだった。
「博多明太子がか?」
「ああ、茂蔵さんの好物じゃろう、ゆって」
祖母が僕に顔を寄せて柔らかく質した。
「裕ちゃん、博多明太子が欲しいって、おじいちゃんがゆうとるんかのう」
僕は無言で大きく頷いた。
祖母の顔中の皺が深くなって、細い両腕が僕の背中を抱いた。
「おじいちゃんは明太子が食うとうて、夜中に起きたんか。そうかそうか。……血圧に悪いのも知っとるうせに。そんぎゃぁに食うたかったんか。どうしょうもないおじいちゃんじゃのう」
祖母は、僕を抱いたまま、何度も頷きを繰り返していた。
「裕ちゃん、教えてくれてありがとうねえ」
祖母は半分笑って、そして残りの半分は泣いていた。
でも僕は祖母に「ありがとう」と言われたことで、張り詰めていた緊張の糸をやっと緩めることができた。
祖母の温かな腕に身体を預けていると、またあの声が小さく聞こえてきた。
『たしか、博多明太子があったのー』
その声は何故か子守唄のように優しく、とても懐かしく感じられた。懐かしくて、いまはとても哀しくて……鼻の奥がむずむずしてくるような。
僕の頭の上に大きく硬い掌が乗せられた。
仰ぎ見ると、大きな父が僕を見下ろしていた。両目を真っ赤に腫らしながら。
「裕介、お前、じいちゃんの最後の声を聞いてくれたのか。そうか、ようやったぞ。上出来じゃ」とわざと乱暴に言って、僕の頭を大きく左右に揺する。
父は照れを隠すときに、いつもこんなことをした。
――さいごの声。
あの日の僕は、その意味を深く考えることもなく、旅の疲れもあったのか、いつしか鼻を啜りながら、祖母の腕の中で眠りこけていた。
祖父の棺には、木箱に入った高級博多明太子が一つ入れられた。