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Over The Rainbow

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「猫が! あなた、猫が!」
 玄関のドアが開く気配に、「ただいま」の声を聞く前に、私は叫んだ。
「おい、どうした」
 可愛がっていた猫が落ちたことを、この人にどう報告すれば良いんだろう。そんなことで頭を一杯にしながら、私はベランダから下を見た。外の世界の眩しさに、下の様子がよく見えない。
「おい、そんなに身を乗り出したら危ないぞ」
 あの人が、私の肩をつかんだ。
「だって猫が」
 アスファルトに飛び散った赤い血の跡が見えるのを恐れながら、猫の姿を探しつづける私に、あの人が階下を覗き込んだ。
「下には何も見えないよ」
 落ち着いた声で言う。
「そんなことより風が冷たい。猫はともかく、早く中に入ろう」
「だって、あなたの猫が」
 私の言葉に、あの人が不思議そうに首を傾げる。
「猫って何のこと?」
 その言葉に、私はさらに混乱した。
 そんな私を、彼は、部屋に引き入れると、「取りあえず落ち着いて」と暖かいお茶をいれてくれた。


「うちはずっと猫なんて飼ってないよ。だいたいこのマンションは、動物禁止だろ?」
 お茶を飲みながら、彼の言葉を黙って聞く。
 だったら、猫と暮らしていた私の記憶は何なのだろう。
 体が温まってくるごとに、部屋の中の荒れた様子が目に入った。ずっと片付けも出来ない状態だったのだから、この惨状も当たり前の話なのだけれども、まともに部屋の様子が見えることさえ、本当に久しぶりのことだったのだ。
「……じゃあ、本当に最初から猫はいなかったの?」
 私の言葉に、「そうだよ」と、あの人が相づちを打つ。
 では一体、私を憎らしげに監視しつづける、あの猫の記憶は何なのだろう。
「でも、ほら、あなた言ってたじゃない。夜に溝に嵌まって鳴いてた猫を見捨てられなくて飼ってるって」
「だから、そんなことはしたことないって」
 同じことを何度も繰り返す私に、彼は根気よく、言葉を続けてくれた。その彼が、何かを思いついたように、ほんの少し笑った。
「……しかし、溝に嵌まって鳴いてるのを助けるって、まるで別の話みたいじゃないか」
 その笑いが何を意味するのかが判らず首を傾げると、彼が言った。
「ほら。大学の頃、一緒に飲みに行った時の話」
 その言葉に、久しぶりにその頃の記憶が、少しだけ帰ってきた。したたかに飲んで、転んで、溝に落ちて、自分が急に情けなくなって大泣きして、飽きれられるかと思ったのに、この人が助けてくれて、泥を拭いてくれたことを。
 急に、猫のいた記憶が遠ざかった。
 そして、胸の深いところに、何かが嵌まり込む気配を感じた。
 そうだった。
 猫なんて、最初からいなかったのだ。





 猫がいなくなって一週間、私は、すっかり荒れてしまった部屋の掃除を続けていた。
 猫は最初からいなかった。
 その事実を何度も繰り返し飲み込みながら、洗濯物を畳む。急に、猫のように洗濯物を引っ掻き回したくなって、私は手を休めた。
 いや、猫はやはりいたのだ。
 私以外、猫のことを覚えている人間は誰もいない。だけど、それでも私の記憶の中には、かすかに猫の姿が残っている。
 洗濯物を、再び畳み始める。
 成り行きで結婚したと思っていたけれど、もっと彼に優しくしたい、と今は思う。
 私の代わりにベランダから飛び降りた猫が、死んでしまったのか生きているのか、見てない私には判らない。それでも、彼のことが大好きだったあの猫は、私が覚えている限り、ずっと一緒にいるのだろう。
 今度は仲良く同居が出来ますように。
 そう願いながら、私は洗濯物を畳んだ。
作品名:Over The Rainbow 作家名:西_