アイロニー
そんな文面のメールが届いてポケットが揺れたのは、私が下駄箱から革靴を取り出した時だった。マナーモードだったはずなのに、と訝しむが少し考えればその理由が分かった。サイレント設定でも震えるようにしたままだったのだ。
『慰めてあげるよ』
絵文字も付けずに、そう送信した。私は、彼と友達に「戻って」からは一度も絵文字を使っていない。もしかしたら、句読点すらも。
すると、何秒も経たない間に再び携帯が振動した。今度は三回鳴っても鳴りやまない。私はサブディスプレイを確認して、画面も見ずに電源ボタンを押し、震えを強制終了させた。そうしたら、今度は自分の手が震えていることに気づいて、携帯ごと両手をブレザーのポケットに突っ込んだ。もう秋の面影は残っていなくて、校舎の中にいるはずなのに白い息が見えた気がした。
もう遅い。野球部もライトを消して活動を終えている。校舎は既に眠りについたかのように静かだ。ただ耳を冷やしていくだけの風は、私のまわりにずっと纏わりついていた。
階段の裏に座り込み、携帯を開く。暗闇で、私の顔だけをぼんやりと照らす。その明かりが弱くなっても、消えてしまっても、私は焦点を変えずに目の前の箱を睨んでいた。
画面が光を取り戻す。今度はワンコールで通話ボタンを押した。
「もしもし」
このときの私はどんな声だったのだろう。是非後で訪ねてみたい。
「もしもし」
掠れた声だった。鼻をすするような音が聞こえる。
「君、今泣いてるでしょ」
軽く皮肉を込めて言ってみる。これはかつて私が彼に言われた言葉だ。
「そりゃあね。まあ、僕は君と違って失恋したわけだけど」
「へえ、覚えてたんだ」
少しだけ、いい気になる。
「しかし、残念だったね。せっかく言ったのに、フラれちゃったんだ」
「どうしても言いたかったんだからしょうがない」
「ま、そんなものか」
「……慰めるって言ったならちゃんと慰めろよ」
私は携帯から耳を離し、真正面に持ってくる。口元を上げて、前々から考えていた台詞を、白々しくならないように読み上げる。
「よくできました。君は一人前に恋をした。それは私が認めよう」
それでも棒読み加減が伝わったらしく、少し長めの沈黙の後に、作ったような笑いと返事が飛んできた。
「どうも投げやりだなあ」
「投げやりはそっちでしょ」
そう言ってくつくつと笑った。電話口から少し離しているので、この声はきっと、電話の向こうに届くことはない。このスピーカーが伝えるのは、意志疎通を交わすにはあまりに大雑把すぎる音だけだ。ノイズばかり響いて、本当に聞きたい呼吸や小さな淀みは相手に届くことなくぼやけていく。
「……今、君笑ってるでしょ」
今度は私が黙る番だった。図星か、というため息混じりの声が耳に伝わった。
「笑ってるどころか、同情してるでしょ」
頭の中で、火花がはじけた。この感情は、何なのだろう。
「一体同情ってどの気持ちを指すのだか。同じ痛みを知ってる人が、その痛みを抱えている人の涙を拭いたいと思うのは同情なの? ……それなら、君だって私に同情してるくせに」
次は、わざと彼に聞こえるように笑う。冷たいと思っていた空気は、今やいい冷却材になっている。しかしそれは脳味噌付近の話であって、身体は凍え始めている。沈黙と冷気が、皮膚を刺すようだ。
「いや、ごめんね。私は慰めるつもりだったんだ。傷の舐め合いでもしようってね。でも思ったより私は汚い人間だったようだ」
返事が続かないのを確認して、わたしはまた口を開いた。
「体内の水分全部絞り出すくらいに泣けばいいよ。聞くだけならなんだって聞いてあげるから。そんで、諦められないようなら……」
「相手がフラれるまで待てって?」
まるで後ろから突き飛ばされたかのような衝撃を感じた。さっき感じた火花の正体は、きっと、私が失恋したときの感情が転がってきてぶつかりあったものなのだろう。そうして生じた摩擦熱が、私をぐいと掴んで離そうとしなかった。
「へえ……」
私はただこれだけを返すだけで精一杯で、どうしてこんな状況に陥ってしまったのかもわからないくらいだ。
「君もとことん報われないな」
余裕釈々とした笑いすら聞こえてくるようで、悔しくなった。あの日から、唇を噛むことが増えたな、と頭の隅で冷静な自分が呟く。
「その台詞はそのままお返ししますよ」
繰り返すように、私も軽い笑いで返す。そして再び訪れた沈黙を退けて、使う予定もなかった台詞を引きずり出してきた。
「じゃあ、賭けでもしようか。どっちの終わってしまった片思いが、先に成就するか」
「面白いね。君に勝ち目なんてないと思うけど」
電話の向こうで、彼は笑ったようだった。
「何言ってるの、そちらさんは気の迷いで私を好きになっちゃう程度の思いでしょ? 望むところだよ」
ぐっ、と相手が唸りをあげて、私だけが置いていかれたかのような沈黙がやってきた。不思議に思って耳を澄ましていると、頭上から降ってくる小さな鈴の音に気づいた。
私が立ち上がって階段の表側にでてみると、私と同じようにぼうっと顔だけ照らされた男子生徒が立っていた。真っ先に、上がった口角が目に付いた。目は赤い。
「こんなところにいたのかよ、お前。もう昇降口締まってんぞ」
私も、気づいたらにやりと笑っていた。電源ボタンを押して、携帯をしまう。鼓膜を直接震わせる声が心地よかった。
「誰かさんが慰めてくれって泣きつくものだから、一緒に帰ってやろうかと思って。早速私の一歩リードかな?」
「馬鹿言え」
私は歩き出した彼の後をついていった。一度は終わってしまった恋さえも、掬い上げることができるのなら、終わりなんてどこにもないような気がする。笑ってしまいたくなるほどに上手く回らないこの世界にも、同じように終わりがないのなら、いつか頭と尻尾がくっついてくれればいいと思う。
それが私たちならいいと思う。