ある日のできごと
「なぁなぁ、ちゅーしていい?」
「消え失せろ、愚民が」
付き合い始めて間もない彼女に、素直に思いをぶつけてみたところ、
それは悪意しか感じられない言葉となって帰ってきた。
「えー、だめなの?なぁなぁ朝陽?」
「うっさい、今私は読書中だっつの」
甘える子猫のように擦り寄ってみる。
しかし彼女はこちらに目を向けるどころか、うざったそうにしっしっ、と振り払う動作をするだけだった。
朝陽が今読んでいるのは、自分が持ってきた歴史小説。
歴史が好きだと言う彼女のために、わざわざ隣町の書店まで行って買ってきたものだ。
渡した時はそれはもう喜んでくれた。
今まで見たことないような満面の笑みを浮かべて「ありがとう」なんて言われてしまった。
それまではよかった。
それまでは。
その本を読み始めてとたん、かまうどころか最早いないもののような扱いだ。
話しかけても「うざい」「だまれ」等の暴言が吐かれるだけで、こちらに見向きもしない。
「…朝陽の彼氏はその本じゃなくて俺なのに…」
そうつぶやいてみても、朝陽は本に夢中だ。
なんだかとてつもない孤独感に襲われる。
朝陽は本の世界に入り込んでいるが、自分はこの場でぽつんと朝陽の読書が終わるのを待っているだけ。
そう思っただけで、寂しくなった。
一緒の部屋に、同じ空間にいるはずなのに、彼女の自分の間には一つの超えられない壁があるように感じた。
大げさかもしれないが、今の自分にはそのぐらいのことに感じられてしまう。
「…朝陽」
「うっさい」
「朝陽」
「だまれ」
「あさひ、なぁ」
「黙れっていてるのが聞こえな、い、の…って、え」
おそらく続きには罵倒の言葉があったであろうそれは、俺の顔を見た瞬間、まったく別のものに変わっていた。
目頭が熱い。
「な、んで泣いてんのよ。そんなにひどい事言った?私…」
急に泣き始めた俺に心配してか、朝陽はあわてた様子で話しかけてきた。
「え、と…。お、男が泣かないでよ、ねぇ」
普段暴言しか出さないせいか、なだめるために口に出したであろうそれも少々毒を帯びていた。
「朝陽、」
「な、なに」
「おれは、あさひの、かれしだよな…?」
「は、なによ、急に」
「あさひとおれは、恋人同士だよな…?」
「ば、なにいって、わけわかんな」
「なぁ」
「…」
「なぁ」
「……………っ。
そ、う、だと、おもってる」
語尾がだんだん小さくなってしまっているのは照れているからだろう。
「…ほんとに?」
「何故そこで嘘つく必要がある」
「ホントにそう思ってくれてる?」
「だからっ!
……おもってるよ」
つん、とそっぽを向いた彼女の耳は、少々赤みを帯びていた。
その反応を見てなんだかうれしくなってしまい、朝陽の小さな体を抱きしめた。
「わ、ちょ、なにす」
「いーじゃん、ね?」
「っ…」
耳元でささやくと、朝陽の耳はより一層紅く染まった。
「そっか、思ってくれてるんだ。えへへ」
「ちょっと、キモいんだけど」
「えへへ〜」
さっきまでの刃物のようなに思えた暴言とは打って変わって、何だがやわらかく感じた。
気持ちの問題なのだろうか。
「…本読みたいんだけど」
腕の中で、朝陽がもぞもぞと動き始めた。
「だめ〜。ちゅーしてくれなきゃだめ〜」
「はぁ!?」
「ほら、朝陽」
ここ、と自分の唇を指差す。
朝陽はきっ、俺の顔をにらみつけるが、赤く染まったその顔では恐ろしさのかけらもないわけで。
「早くしないと、帰らせてあげないよ?」
「…さっきまでめそめそ泣いてたくせに!!」
「それは朝陽がかまってくれないから〜」
「あんた何歳児だよ!」
「17歳児〜」
「ああもう!」
「ほら、ね、朝陽?」
―――Besame
「…あいつらさぁ」
「俺たちがいること」
「忘れてやがる」
完全に二人の世界に入ってしまっている彼らに呆れかえる三人。
この後、朝陽が我に返って他の三人のことをボコボコにしたというのは、また別のお話。