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南 総太郎
南 総太郎
novelistID. 32770
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『消えた砂丘』  1

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『消えた砂丘』 

1
  
徒ニ馬齢ヲ重ネル侭ニ早ヤ古希モ過ギタリ。
暫シ己ガ来シ方ヲ顧ミルニ胸中今尚熱クスルハ少年ノ日ノ思イ出ナリ。
抑エ難キ衝動ノ赴ク侭ニ終戦前後ヲ過ゴセシ疎開地ヲ六十余年振リニ訪レリ。
懐カシキ砂丘ヲ見ント砂防林ヲ駆ケ抜ケレバ突如視界ヲ遮ル防潮堤ノ厚キコンクリート壁ニ行ク手ヲ阻マレリ。
階梯ヲ上リ堤上ニ立テバ白砂青松ノ美景モ今ハ無ク荒波ニ削ラレシ砂浜ガ只細々ト続クバカリナリ。

男は先刻来己が半生記の冒頭文の推敲を試みている。
中途半端な漢文調ながら自分の心境としてはシックリする。
だが、今時漢文などとは妙に気取った感じがしないでもない。
しかし、所詮他人に読ませることが目的ではないので、これで良かろうと思う。

銀白の長髪が強い潮風に乱れて最近めっきりシミの増えたコメカミに執拗に纏わり付く。
それを頻りに掻き揚げながら防潮堤の内側に設けられたジョギング用の茶色の細道を行きつ戻りつしている。

目前には晩秋の午後の海が暗緑色に広がり、所々の雲間から洩れる数条の光の帯が、海面に眩しく反射し、防潮堤の壁を金色に染めている。
狭い砂浜と小松の密生する砂防林を仕切るように延々と続く防潮堤に、男は腰を下ろすと小松林の外れに建つ小さな石地蔵に目を遣る。

台座の薄汚れた花瓶には白菊が揺れ、線香の白い煙が上がっている。
男があげたものである。

脳裏をふっと白い小さな顔がよぎる。
既に六十年余りの歳月が経っている。
昔を想う男の頬が塩気でネットリしている。
それは少年時代と全く変わらぬ海特有の生臭い香りの潮風のせいである。

次第に風が強まり、波音も高くなって来た。

男はやおら腰を上げると、防潮堤の階段を下り小暗くなった松林の細道を海岸通りの方へとゆっくり歩いて行った。

翌朝男は駅前の旅館を出ると、疎開先だった家を訪ねた。
生憎、家人は出払っていた。
昔と異なり大方の家が、近隣の町へ働きに出る。
平日何の前触れもなく突然訪問する方が悪かろう。
無人の家の庭の片隅に薄紫の野菊らしい花が寂しげに揺れている。

男は家の周囲を眺め、目をみはった。
松茸狩りを楽しんだ裏山の松林は、すっかり竹林に姿を変えていた。
松くい虫か酸性雨か知らぬが、あの赤松は枯れたのだろうか。
そればかりではなかった。

気が付けば、家の前の田んぼが一面の雑草、それも人の背丈以上もある黄色の花を付けた帰化植物で覆われている。

苗代の時期になると山から細竹(布袋竹)を採って来て、一家総出で虫退治をする風景が見られたのが嘘のようである。
これも減反政策とやらによる田園の荒廃だろうか。

仕方なく、当時気の良い年上の中学生が住んでいた数軒先の石垣の家を覗いた。
土間の戸の隙間から顔を出したのは、見知らぬ中年の女だった。
何を勘違いしたものか、無愛想な表情を見せただけで引っ込んでしまった。

当時は、よく「押し売り」が来たものだが、今でもその類の者が来るのだろうか。
或いは、景色のみならず人の素朴な親切心までも消えてしまったのだろうか。
そう思うと、男はひどい疎外感に襲われた。
浦島太郎の心境や斯くばかりかと思うと、無性に誰か知った顔に会いたくなった。

小学校の同級生の家々を、うろ覚えの地理を頼りに数軒当たってみたが、東京で暮らしているか、或いは既に死亡していた。
半農半漁の家の次三男では、多くが都会へ出て行くのは当然だろう。

学校を訪ねれば、他の同級生の住所なども判るとは思ったが、当時の教師がいる筈もなく、又無愛想な応対を受けそうで億劫になった。

駅前通りまで戻って来て、空腹に気付いた。
時計は既に十二時を回っている。

幸い、通りの向かい側に蕎麦屋の暖簾の下がっているのが目に入った。
早速、道路を横切ろうとした時、男の鼻先をダンプが勢いよく通り過ぎた。
横断歩道でもない所を渡ろうとした自分の非を承知しながらも、
(危ない運転だな)
と、ダンプの尻を睨んだ。

その前方に大きな立て看板が見える。
「海浜レジャーランド建設現場入り口」
と、大書してある。
(確か、隣の市にも同じような遊園地があった筈だが、未だ不足と言うのだろうか。益々自然が減るばかりじゃないか)

妙に腹立たしい思いで、足早に道路を横切ると、蕎麦屋の暖簾をくぐった。
昼食時のせいか、予想外に店内は混んでいる。
奥まったテーブルに空席を見付け腰を下ろした。

メニューを見るまでもなく、即座に鴨南蛮そばを注文した。
最近は、鴨南蛮に凝っていて蕎麦屋に入ると季節を問わず決まって鴨南を注文する。
大方の店は合鴨を使うが、男は臭みのある野生の鴨肉が好物である。

「ハーイ」
と、応える若い女店員の背中に向かって
「ビール中壜一本」
と、追加した。
「お客さん、中壜は置いてないのです。大壜か缶入りでしたら」
「ああ、そう。じゃ、大壜でいいや」

暫くすると、手拭を被った老婆が厨房から盆を運んで来た。
栓を抜いたビール壜と薄汚れた感じのコップが載っている。

老婆がビールを注ぎ終わるのを待って、男は言った。
「おばさん、また遊園地が出来るみたいだね」
老婆は男の顔を見直すと、
「ああ、スーパーの黒井さんがエラく儲けでな。今度は遊園地だど」

黒井と聞いて、男は飲みかけたコップをテーブルに置いた。
(まさか、あの黒井玄太郎ではないだろうな)

老婆は話を続けた。
「黒井さんは、市長の桜田さんの後援会長もなさってでよ。この界隈じゃ、一寸した名士だあよ」

(久し振りに土地の訛り言葉を耳にした。東京から、僅か百キロ程度の距離のせいか、電車の中で聞いた地元の高校生達の会話は綺麗な標準語だった。テレビなどの普及による影響だろうか。都市化が進むにつれ、人も自然も趣の減って行くのは残念である。
ところで、今度は桜田の名が出た。となると、あの黒井に間違いなかろう。それにしても、市長と実業家か)

村の造り酒屋の一人息子だった桜田正治少年の、大人しい顔立ちが、目に浮かんだ。
桜田も黒井も共に、男より二つほど年上だった。

桜田は早々と父親を戦争で失い、家業の酒造りも使用人が次々に召集されたため、立ち行かなくなり、祖母と母親、それに妹の四人でひっそりと暮らしていた。
妹の百合子は、いつも兄の正治に手を引かれていた。
年に似合わず大人びた顔立ちの色白の美少女を、男は密かに好いていた。

昼酒は酔いやすく、男はビール一本でほろ酔い気分になった。
もっとも、蕎麦は大方残して久し振りに出くわした本物の鴨肉ばかり拾っていた。

上り電車に乗ってからも、桜田や黒井の名が気になった。
男は彼等の意外な出世振りを知って、妙に妬ましさを覚えた。

桜田の性格は、人前で演説をぶつようなものとは程遠かった。
常に控えめで人の後ろに静かに立っていると言った感じの少年だった。
しかし、戦前には近郷近在に名を馳せたと言われる桜田酒造の一人息子という毛並みの良さは、地方政治家として旗揚げするには恰好の旗印となったことだろう。

だが、黒井はどうか。
地元出身ではなく、男と同様疎開組だった。
疎開組の子供達の多くが、何かに付けて村の子供達に苛められたが、黒井は例外だった。