【どうぶつの森】さくら珈琲
36.バイバイ
夕方になると、とまととリクは帰ってきた。
とまとは、わたしがヴィスと二人きりでいることにぶーぶー文句を垂れてきた。
リクは、採ってきた虫をヴィスに自慢げに見せていた。
二人とも、ヴィスと同じように何も聞いてこなかった。
そして、彼が家に来たのは、それから少しあとのことだった。
「遅くにごめんね。ちょっと、いいかな?」
みしらぬネコさん、とはもう呼んではいけない気がした。
だからわたしは黙ってうなずいて、外に出た。そうしてしばらく二人で、何も言わずに歩いていた。お互いにどう切り出せばいいかわからなかった。
白い雪に四つの足跡が続く。さくら座は曇った空に、見えない。
雲以外何もない空を見ながら、先に口を開いたのは彼だった。
「ノラなんて名前さ、ダサいよね」
―――そうかな。
「うん、いかにも野良ネコってかんじ! あははは!」
彼は笑う。いつものように。
ねぇ、わたしも、いつもみたいにいられてるかな。
「最初に会ったときさ、さくらってすごい警戒心むきだしだったよねー」
―――まぁね。
「オレ、ほんとにさくらのことかわいいって思ったんだけどなあ」
いつもみたいに、いられてるよね。
ほら、こんなに胸がさ、熱くて。愛しくて。いつもと、何も変わらないよ。
そこで間が空いた。吐く息が震えた。まぶたがじわっと熱くなった。
―――行くの?
どうしてわかりきってることを聞くとき、こんなに空しさを感じるんだろう。
「うん、行っちゃうよ。」
―――(行かないでって言ったら、どうする?)うん、そっか。
ねぇ、それって、いつ帰ってこれる?
明日? 明後日? 来月?
ねぇ、行かないでって言ったら、行かないでくれる?
ねぇ、行かないでよ。
ずっとそばにいてよ。またばかげた話をして、笑っていてよ。
みしらぬネコさんは、わたしの願いには気づかない。当たり前だ。口に出さないと何も伝わらない。言わないと、わからないことだらけって、わたしは誰よりも知っているから。
けれど彼はいつだって、黙っていてもわたしの気持ちを受け止めてくれた。わたしを、好きでいてくれた。
そんな彼に、わたしは何も言わない。
言っては、いけない。
「オレさ……さくらには、すごい感謝してるんだ」
―――わたし、なにもしてないよ。
(行かないで)
―――気をつけてね。
(行かないで)
「じゃ」
(行かないで)
彼が後ろを向いた瞬間、熱い涙が頬を伝った。ぼろぼろこぼれて、わたしの足元の雪を溶かしていく。
すると、去ろうとした彼がいきなり振り返った。慌てて涙を拭ったけれど、きっと鼻はまだ赤いままだろう。サクラさんみたいに、きれいに泣けなくてごめんね。
それでも彼は気づかないふりをして、こちらに近づいてきた。
「ねぇ、さくら」
手を握られる。だめだよ、そんなことしないでよ。
どうか、汚いわたしが爆発する前に、消えて。
「今までさ、オレ……さくらにいっぱい気を遣わせてたよね」
そんなことないよ。わたし、あなたにたくさんのことを教えてもらったんだよ。知らない自分を見つけられたんだよ。
「オレの最初の、本当の名前を、教えるね。……さくらにだけだよ?」
いたずらっ子のように笑って、切なそうに見つめられて、抱き寄せられて。
彼の顔が近づいた。
あの夜みたいに、赤い瞳に吸い込まれそうだった。
「―――……」
耳元で彼が名前をささやいたその瞬間は、世界で一番長くて短くて美しい時間だった。
その手が離されてしまったのも、気づけなかったくらいに。
「バイバイ、さくら。」
(バイバイ)
(バイバイ)
(そうか、バイバイか)
行ってしまう。
わたしが初めて好きになった人が、もう会えない人になってしまう。
追いかけたいのに、催眠術にかけられたみたいに動けなかった。
ただ、何度も何度も、彼の本当の名前を呟いた。それしか出来なかった。今行かないでと叫べばきっと届くだろう。でも、それすら言えない。
遠くなる後姿を、見送るだけ。
わたし、あなたにいっぱい言いたいことがあったのに。
どれも、声にならなかった。
作品名:【どうぶつの森】さくら珈琲 作家名:夕暮本舗