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ひどい雨

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『ひどい雨』

 大都会ニューヨークに、世界中からいろんな夢を抱いて人間は集まる。その多くの夢はシャボン玉のように虚しく弾けて消える。失意に暮れ、ニューヨークを離れる者も少なからずいる。帰るところのある者はいい。帰るところのない者は、大都会の片隅で生きねばならない。

夢が破れたメグミも、ニューヨークの片隅で生きている。娼婦になって、もう一年が経つ。ゴミ箱みたいな、汚い、小さな部屋で客をとる。博多人形のような白い肌を隠す美しい服をまといながら客を待つ。後一年も続かないだろうと思っている。その先を考えないことにしている。というよりも、想像することができないのだ。

 階段を上る足音がする。それが止んだかと思うと、今度はドアを叩く音がする。
いつも胸が高鳴る。別に恋人に会うわけではない。ただ死人にように、眼をつぶり男のなすままのドラマが始まるのだ。ドラマを演じるのは、もう一人の自分。一番大切な心は閉ざしておく。そうすれば、純潔でいられる。そう信じて、もう一人のメグミがドラマを演じる。

 ドアを用心深くほんの少し開ける。
「メグミ、今日の客は日本人だ」と客引きのプエルトルコ人が言う。
 プエルトルコ人は四十過ぎの元ピアニストだ。敬虔なクリスチャンでもある。十五のときにプエルトルコから移住した。苦労を重ね、音楽を学んだ。音楽だけを心の支えにして生きてきた。二十代後半になったとき、ピアノを弾かせれば、マンハッタンでも一、二を争うとまでいわれようになった。ところが、三十の誕生日を迎えたとき、交通事故に遇い、ピアノを弾く指を切断した。ピアニストになる夢を捨て、今は客引きで生きている。絶望したメグミが死のうとしたとき、止めてくれたのは彼だった。
「嫌よ」
「どうして?」とプエルトルコ人が泣きそうな声で尋ねた。
「嫌なものは嫌なの」
「メグミ、もう客は来ている」
「駄目よ。帰ってもらって」
「子供みたいなことを言うなよ。断ればどうなるか知っているだろう。組織を裏切ることになる。人を殺すのも、蠅を殺すのも、同じと考えている連中だぞ。断ったら死があるのみだ」
 ドアを大きく開けると、プエルトルコ人は消え、代わりに小太りした赤いシャツを着た日本人が立っていた。どう見たって場末の劇場の下手くそなピエロ役に打ってつけにしか見えない。酒を飲んでいるのだろうか、顔がほんの少し赤い。
「入っていいかな?」
 メグミはうなずいた。
 男は部屋に入ると背広を脱いだ。
「日本人に会うとほっとするね。君も日本語が話せるだろう?」
 メグミはうなずいたが、何も言わず突っ立ったままである。
「寡黙だね。でも、これからは、沈黙は金じゃないよ」と言うとベッドに腰を下ろした。
「何か言えよ」
 相変わらずメグミは何も聞こえないかのように立ったままだった。
 男は鼻を鳴らすと、ベッドの上で大の字の格好になった。
「ちょっと、寝ないでよ! 靴を脱いでよ!」
「ちゃんと言葉が通じるしゃないか!」
 メグミが顔を曇らせながら「試したのね」と言うやいなや、男はおおいかぶさり、服を乱暴にはぎとろうした。
「乱暴しないで! この服、高いんだから!」
「こう見えても、一応、紳士のつもりさ。契約をちゃんと履行してもらえるなら、乱暴しない。名前は忘れたが、あの客引きに高い金を払ったんだ」
「いいわ。でも、その前にシャワーを浴びて」
 シャワーを浴びて戻ってきた彼は、タオルを腰に巻付けていた。メグミも既に服を脱いでいた。
「ビールでも飲む?」
「一杯だけ」
 男はグラスにビールに注ぐメグミをじっくりと観察した。
「私も飲もうかな?」とメグミは聞いた。
「どうぞ」と男は言った。
 男は沈黙したままビールを飲み干すと、まだ飲み終えていないメグミを抱き寄せた。拒絶しても無駄と悟ったメグミは目を閉じ、男の荒々しい欲望の嵐を素直に受け入れた。別に初めてのことではない。ずっと前から経験している。嵐が過ぎるまで、相手に合わせて演じればいいのだと言い聞かせる。抱かれながら、脳裏にふと昔のことが過った。昔、といってもそんな遠い話ではない。五年前のことだ。……東京の名門女子大を出て、地元の有名な百貨店に入社したばかりであった。彼女の夢は得意な英語を生かし、外国商品を扱いかった。できれば、世界を股にかけ、商品を買いつける仕事に就きたかった。が、現実は違っていた。配属されたのは、百貨店が発行するクレジットカードを管理する部門であった。そこの部長というのが、自分が神にでもなったかのように横暴にふるまう男だった。意気地のない男達は犬のように従った。少し意気地のある者が入ってきても、すぐに別の部門に配属させられた。豚のように太っていて、ブルドックのような顔をした男で、チビのくせに椅子の最大限に高くして坐る。想像しただけでも、吹き出してしまう戯画の王国の王様であった。彼の楽しみは、大卒の新人をいじめること。自分が短大しか出ていないことにコンプレックスを感じていた。名門女子大出のメグミには、特にひどい扱いした。彼女の冷やかな眼差しも、部長の神経を逆なでしたのであろう。彼女は孤立させられた。そんなとき、よりによってライバル会社の、それも妻子のある男性で出会い、恋に陥ってしまった。その男と仲良くしている光景を、部長の腹心の部下に見られてしまい、辞めさせられてしまった。恋した男は一時の気の迷いだったといわんばかりに、すぐに離れていった。それから、彼女の坂道を転がり落ちるような転落劇が始まった。得意の語学を生かそうと、ニューヨークまできて、あれこれとチャレンジしたものの、どれもみじめな結果に終わった。さらに悪いことに、詐欺にひっかかり多額の借金を背負わされた。自殺しようとしたとき、プエルトルコ人に思いとどまるように説得された……遠い日の思い出だ。
 男の欲望の嵐は意外にも簡単に過ぎ去った。まるで熱帯のスコールのように。男は直ぐに服を着た。メグミも同じように着た。
「日本に戻らないのか?」と男は聞いた。
「分からない」と答える前に、男は部屋を出ていった。

 しばらくして、プエルトルコ人が入ってきた。
「今日はひどい雨だ。まるで冬のような冷たい雨だ。まだ秋だというのに。今日はもう客来ないかもしれない」と呟いた。
「この商売は長く続かないぞ。俺と一緒に旅に出ないか?」
 メグミはこのプエルトリコ人が嫌いではなかった。むしろ妙に気持ちが合った。ひょっとしたら、うまくいくかもしれない。そんなふうに考えたこともあった。けれど、お互い過去を知らない。何を考えているかも分からない。育ってきた世界も違う。一時、このゴミ箱のような空間を共有しているだけ。
「行くあてはあるの?」
 プエルトルコ人は笑いながら首を振った。
「暖かいところがいいな。俺には、帰るところがない。どこにも自由に行ける。でも、メグミには、帰るところがあるのか?」
 故郷では、老いた父母が兄夫婦と一緒に暮らしている。兄嫁というのは、実に嫌味っぽい人間で、一日一緒にいるだけに息がつまりそうな人間だった。いつか、老いた父母を引き取ろうと思っていたが、今はそれも叶わぬ夢となってしまった。
「泣いているのか?」
作品名:ひどい雨 作家名:楡井英夫