おいしいコーヒーをどうぞ
なんて誰かに言えば笑われそうな台詞だが、私はコーヒーが好きだ。
だが『通』というにはほど遠く、銘柄にもこだわりはないし、正直、味もわかっていない。
コーヒー豆の専門店に行って、『おすすめ』とか『オリジナルブレンド』と書かれたPOPで選んだり、店の方にチョイスしてもらったりしたものをその場で挽いて貰い購入してくる。
持ち帰ったコーヒーもただ分量通りにコーヒーメーカーに入れ、水を汲んでスイッチを
ONして待っているだけ。
コーヒーカップは、持ち心地が手に馴染むお気に入りを使うようにしている。
だから気に入ったカップに出会うたび買ってしまう。
買う理由は、気に入ったカップでも 洗う時に割ったり、欠けたりしてしまうことがあるからだ。
あらためて言うならば、カップの扱いが雑なのか下手なのか つい壊して捨ててしまうからだ。
しかし、唯一買ってから3年8ヶ月、食器棚にでんと置いてあるカップがある。
もちろん気に入って買ったのだが、これがどうして・・・。
床に落としても 洗っていてシャボンに手を滑らせ食器同士がぶつかっても負けたことが無い。
恐るべし、百円均一店で買ったカップ。
ただ、飲みづらいのが唯一の難である。
手にした時にはわからなかった唇あたりが使って初めてわかった。
こればかりは、選ぶ時に試させてはいただけなさそうと、まだお願いは控えている。
とはいえ、気に入ったもの。壊れもしていないのに捨てることが私にはできない。
だからカップの主として、ずっと食器棚の中央に置かれている。
今朝は、コーヒー豆専門店の新しい店員さんがにこっと微笑んでくれたので
「あ、あなたの好きな豆をください。」と注文して購入したしろものだ。
やっぱり私には、味の評価はできないが、店員さんの笑顔を思い浮かべると旨い。
そんなある日、私は広報誌の片隅の小さな記事に目が止まった。
『あなたの為に、おいしいコーヒーをお入れします』
独りで入れるコーヒーもいいが、自分の為にコーヒーを入れてくれるとはどういうことだ。
さっそく、記載された番号に電話をかけた。
「はい」
「あの、記事を見たものですが、」
「コーヒーのですね。ありがとうございます。」
電話から流れる声は、耳に障害も無く入り込んでくるような聡明な印象だ。
「どんなシステムですか?」
「貴方様にご都合どおりにコーヒーをお入れ致します。一日からお受け致します。ご指定のお時間にお宅へ参りまして、そちらで入れさせて頂き、召し上がっていただきます。料金等は、お伺いした時、頂戴致します。ご予約なさいますか?」
「じゃあ、土曜日の朝だけというのもいいですか?」
「はい」
「では、土曜日の朝、9時にお願いしたいのですが」
「わかりました。ではご住所をお願い致します。」
私は、やんわりとした流れに任せ、ほいほいっと話を進めていた。
「はい。ご確認ですが、土曜日の午前9時に伺えば宜しいですか?それとも午前9時にお召し上がりになりますか?」
「あ、そうか。じゃあ9時に来てください。それで出来上がり次第いただきますから」
「かしこまりました。ありがとうございます。」
「あ、あ、あ、待って。」
「はい」
「あの、料金は?」
「その時の状況に応じてでお願い致します。では」
電話は切れてしまった。
さて、いくらの料金がくるのだろうと急に不安になった。
土曜日の朝。
私は落ち着かなく普段よりも早く目が覚めてしまった。
コーヒーでも飲んで落ち着きたい。
いやそれはしたくない。
一杯目のコーヒーは、やはりおいしくありたい。
自分で入れた味気ないコーヒーは毎日飲めるのだからと我慢した。
少しいらつきを感じ始めた頃、チャイムが鳴った。
時計を見る。
時間通りだ。
私は、彼女をリビングに招き入れ、挨拶をした。
電話口での印象どおり、強いて言うならフリル付のエプロンのまま来ないで欲しかった。
男の一人所帯、少々恥ずかしい。
彼女は、すぐさまキッチンに行くとケトルに水を汲み、コンロにかけた。
水量も僅かなのだろう、すぐにシュッシュッと音が耳に聞こえた。
(ネルドリップだろうか?どんな豆かな?あー値段が気になるな・・)
持っていた鞄の中から何やら取り出しているような仕草の彼女が急に振り返った。
「カップはどれになさいますか?」
「では、これで」
私は、現在使っているお気に入りのカップが壊れたら 次に使おうと思っていたカップを 記念すべき今日、おろすことに決め、昨晩落とさないように丁寧に洗っておいた。
私は、いい香りが鼻先をかすめたのを感じると、いつもの席に座って待った。
「おまたせ致しました。どうぞ」
私の前に湯気すらもおいしそうに香るコーヒーを差し出した。
「では、いただきます。」
彼女は、トレイを前に抱え、目を細め優しく微笑んだ口元で私の斜め前で立っている。
私は、鼻先で香りを嗅ぐと、色合いも美しいコーヒーを口に付けた。
ひと口啜るように飲んでみた。
おいしいではないか。
もうひと口。
「おいしいですよ。ありがとう。こんな朝を迎えられるなんて」
彼女はいっそう微笑んだ。
ゆったりと楽しみながら味わっている間、彼女は、静かに居ることさえも気にならないようにじっと立っていた。
「ごちそうさま」
飲み終えたコーヒーカップを置き、私は聞いた。
「あのお支払いは?」
「はい。ではお願い致します。こちらです。」
彼女は、何のためらいもなく私の目の前に紙切れを差し出した。
受け取り確認する。
「1,500円ですか?」
「はい、お願い致します。」
私は、財布から千円札と500円玉を出し、彼女に渡した。
「はい、1500円。ありがとうございました。あ、おつり1円です」
私は、よくよくわからないまま 一円を受け取った。
「あの、私は毎朝コーヒーを自分で入れているのですが、こんなにおいしく入れる方法を教えてはいただけませんか?いえタダでとはいいませんから。」
「カップにザザッとコーヒーを入れて沸かしたお湯をドドッと注いでください。あなた様はブラックでしたのでこれで宜しいですよ」
「はあ・・」
「おいしいコーヒーは美味しいですね。あなた様もどうぞお楽しみください。では私はこれで」
彼女は、玄関を出て行った。道路脇に自転車が停めてあったのだろう、走り去る音がした。
「ザザッとで、ドドッとって・・・」
私は、飲み終えたカップを流し台に持っていってその意味を知った。
キッチン台の上に見かけない茶褐色の粉の入った瓶があった。
その瓶の下に小さな紙片が挟まっている。
一瞬固まった。だが、頬が痛くなるほど、笑わず、いやにんまりせずにはいられなかった。
『¥1,499』のレシート。
(えっと、1,380円に消費税か・・一円は、嘘つけなかったってことか)
カーテン越しにもう姿の見えない彼女に呟いた。
「ありがとう。本当においしかったですよ。」
−おしまい−
作品名:おいしいコーヒーをどうぞ 作家名:甜茶