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悪夢

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『悪夢』

 まるで獣のようなうめき声にびっくりして、妻の真美が起きると、隣で眠る夫の太郎がうなされている。最近よくあることだった。はじめの頃は、よく揺すって、「どうしたの?」と聞いたが、今はさほど意に介さない。聞いても、「夢を見た」としか答えないからだ。

 太郎はトラック運転手だ。会社を休んだこともないし、タバコも酒もやらない。一人娘の愛子のためにひたすら働いている。彼は苦労を背負ってきて生まれたのかもしれない。幼い頃に両親と死別した。叔母の家でアルバイトしながら高校を卒業した。横浜に来て、小さな運送会社に勤めた。十年後、同じ会社に就職した真美と出会う。真美は悪い男にひっかかり妊娠していたが、一緒に育てようと言って求婚した。真美はその悪い男の借金までも背負っていた。初め真美は「くずのような女よ」と拒んだが、やがて「自分も同じようにくずだよ」と屈託なく言う太郎に甘えたことにした。それから十年が経った。娘はすくすく育ち、太郎を本当の父親だと思っている。

 最近、太郎はめっきり老けたが、真美は仕事のし過ぎのせいだと思った。しかし、そうではなかった。
 数か月前、雨降る日のことである。
 ほんの一瞬の出来事だった。気づいたときは遅かった。小さな女の子が乗る自転車に気づくのが遅れてしまい、巻き込んでしまった。気が動転し、そのとき自分が自分でないような気がした。その子がどうなっているかも確かめずに、その場を立ち去ってしまった。車を運転しながら、あれは悪い夢だと自分に言い聞かせた。

 翌日の新聞に、ひき逃げ事件のことが載っていた。そして女の子が死んだことも。彼は卒倒してしまった。怯える生活が始まった。いつも、誰かが見ているのではないかという不安を抱え、そして夜は夜で、悪夢に悩まされた。

――悪党だ。とんでもない悪党だ。悔やんでもどうすることもできない。しかし、警察に捕まったらどうなるか。自分を頼りにしている妻や娘が路頭に迷うことになる。娘の小さな手、温かい手。刑務所に入れば、その手に触れることもできなくなる。そう思うと、逃げるしかなかったと自分に言い聞かせるが、良心が許さない。夜毎、悪夢に苛まされる。夢の中で、トラックで巻き込んだ子は自分の子だった! そんな夢も何度も見た。……驚いて、目を覚し、身を起こす。びっしょり汗をかいている。
真美が、「どうしたの?」と聞く。
「何でもないよ」
「また怖い夢をみたの?」
「そうだ」と気のない返答をする。
「どんな夢なの?」
 太郎は首を振る。「よく分からない夢だ」
 決して口にできない夢だ。たとえ地獄に行こうと、口にしてはいけない……そう自分に言い聞かせる。

 事故から一週間後のことである。刑事が来た。
 あの日と同じ雨が降っている。嫌な感じがした。
 あの交通事故とは何の関係のないが、近くで発生した事件で聞き込みに来たのだ。警察を見ただけで、彼は顔面蒼白となってしまった。刑事の話を聞いているうちに、あの日の出来事を思い出し、震えが止まらなかった。
 心配した刑事が「どうかしました?」と聞いた。
 つい、大声で「何でもないよ! 帰ってくれ!」と怒鳴り返してしまった。
 何でもないことはない。泣きたいくらいだ。一人だったら、きっと泣いていただろう。一人なら――こんなに苦しいなら、いっそのこと死のうかと思った。死ぬ? だが、かわいい妻や娘を置いて、死ぬことはできない。どうすればいいのか? 全てを告白しようか? いや、もう遅過ぎる。――全ては終わってしまったのだと彼は思った。しかし、本当はまだ始まったに過ぎなかった。永遠に終わることのない悪夢という名のドラマが。
作品名:悪夢 作家名:楡井英夫