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サルバドール
サルバドール
novelistID. 32508
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赤い雨

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定時に仕事を終わらせて逃げるように帰ろうと思っていたのに、上司に急な仕事を頼まれて2時間も残業する羽目になり、退社したのは結局、8時を過ぎてからだった。エントランスを出て駅まで走り、電車に飛び乗ったけれども、冷静に考えれば間に合うわけがなかった。会社から自宅まではどう頑張っても1時間半はかかる。8時15分の電車に乗ったところで、9時までに自宅に着いてテレビの前に座ることは絶対に無理だ。案の定、駅に着いたのは8時50分頃で、そこからバスに乗って歩く時間を含めても最低30分はかかるから、予定時刻を大幅にオーバーしてしまうことは確実だった。

改札を抜けると、人目も憚らずにバスの停留所まで走り、這う這うの体で辿り着いた。時間が遅かったせいだろう、停留所には俺を含めても5~6人の客しかいなかった。その中に奇妙な女がいた。髪の毛を腰の辺りまで伸ばした幸薄そうな女だったが、そいつは雨も降っていないのにどういうわけか傘を差していた。俺はそのことが無性に気になって、堪え切れず女に声を掛けた。

「あの、どうして雨も降っていないのに傘を差しているんですか?」

女は傘を差したままで俺の方に振り返り、

「赤い雨が降るの……」

とわけの分からないことを言った。そうこうしているうちにバスがやってきたが、女はそれに乗らずにネオンサインに照らされた夜の盛り場に向かって歩き出した。バスに乗らないんですかと俺が声を掛けても、女は振り返らなかった。頭のおかしい女なのかなと思いながらバスに乗り込み、後部座席に腰を下ろした。バスがエンジンを唸らせてゆっくりと動き出し、やがて、女を追い越した。窓ガラス越しに見える女の顔は、その上半分が傘に隠れて見えなかった。

それから1週間後の月曜日、先週と同じように残業を言い渡された俺は、半ば諦めたように8時25分の電車に飛び乗った。駅に着いたのは8時50分だ。地球が引っ繰り返ったって間に合うはずがなかった。

月曜日の夜は楽しみにしているドラマがある。好きな女優が出ている、本格的なラブストーリーだ。ハードディスクに自動録画されるように設定してあるので、好きな時に見れるのだが、やっぱり、リアルタイムで見たいという願望はある。だから、なるべく定時で帰れるように努力するんだけれども、この前や今日みたいに上司から邪魔されると、折角の努力も水の泡になってしまう。

「来週のプレゼン用の資料、今日中にまとめておいてくれ」

上の者に媚び諂うだけが取り柄の、無能な上司の顔が浮かんだ。こっちの事情も知らずに無茶を言い付けるなよ。いつか仕返ししてやるからな。そんな恨み節を唱えながら、改札を通り抜けた。サラリーマンやOLなど鈴なりの客でごった返すコンコースを、五番出口に向かって進んだ。途中、構内に設置されている大型の液晶テレビジョンが視界の端に映り込んだ。画面の向こうで、若いイケメンのアナウンサーが神妙な面持ちでニュース原稿を読み上げていた。「世界各地で一夜にして大量の人間が姿を消した」というニュースだったが、俺にとってはどうでもいいことだった。

人ゴミを掻き分けながらやっとのことで5番出口から出た。そこからバスの停留所までは、歩行者天国と化した交差点を横断しなければならない。信号が赤から青に変わるのを待って、俺は横断歩道に足を踏み出した。人ゴミが一つの塊となって波濤のように右へ左へと流れていく。その中を俺は縫うようにして移動したのだけれども、人が壁になって中々前へ進むことができず、波の流れに任せるように歩いていくしかなかった。

苛立ちを覚えながら、一歩一歩と歩いていると、奇妙な物体が波の中に紛れて移動しているのが見えた。それは傘だった。1週間前に見たのと同じ白色の傘だった。それを差していたのはもちろん、あの女だ。あの時と同じように傘のせいで女の顔の上半分は見えなかったが、下半分は辛うじて見えた。女は唇に薄いピンクのルージュを引いていて、口角には黒い点のような黒子があった。女の顔を確認しようとして、交差点のど真ん中で立ち止まった時、髪の上に何かが落ちたのが分かった。雨かなと思って空を仰いだ瞬間、俺は言葉を失った。

空を塞いだ分厚い雲の真中に赤い斑点があり、そこから赤い染みが同心円状に広がっていた。あたかも傷口から溢れ出た大量の血液が皮膚を染めるように、驚異的な速さで。見る見るうちに雲は真っ赤に染められていき、やがて、溶けるように大粒の赤い雨を降らせた。その雨は単に色が赤いと言うだけの、普通の雨ではなかった。冷たいという感覚よりも、熱いという感覚の方が勝った。皮膚を焼かれているのだと分かった時、周囲からもがき苦しむような声が聞こえてきて、その場にいた人間が次から次へと消えてなくなった。奇妙なことに、衣服だけを残して中身だけが溶けたように……。俺は手の平をかざして見た。指がケロイドの如くに爛れ、第二関節から上が溶けてなくなっていった。

篠突く赤い雨は、交差点に群がっていた大量の人間をものの数分で溶かした。白い傘を差したあの女を除いて。女は傘を差したままで俺の方に近づいてきた。そして、前屈みになり、今にも溶けようとする俺の顔を覗き込んだ。薄れゆく意識の中で、女が不敵に微笑むのが見えた。
作品名:赤い雨 作家名:サルバドール