一番大切なもの
ユキナは父親のノボルが大好きだった。大人の目から見れば優柔不断で頼りない人間だったが、ユキナにはとても優しい父であった。小さい頃、いつもおぶって遊んだ。貧しくとも、素朴で幸せな時間があった。ところが、ある日、ノボルは、恩のある人を庇い過ぎて、逆に自分自身が泥濘にはまり、抜け出せなくなってしまい、絶望し自殺してしまったのである。父親と娘の幸せな時間はそこで途切れた。ユキナはその日を境にして、暗くなった。貝のように心を閉ざし、生気を失ったように見えた。暇さえあれば、父親の写真を眺め、「何で死んじゃったの?」と泣き崩れた。
父親が死んだのは、疾しいことをしたからだと悪い風評が広まり、そのせいで母親の郁子も仕事を失う羽目になった。郁子は生きるために、夫が眠る長野の地を去ることにした。彼女は幼き時よりいろんな病気をして、数年前にも乳ガンとなり、いつ再発するかもしれないという不安を抱えていた。無論、そのことは娘に伝えていない。不安を抱えたまま、叔母春子を頼り、春子が住む岡の地に移住した。
長野を去ることを決意したとき、郁子は『何もかも捨てて生きよう。心を鬼にして。娘のために生きよう』と心に誓った。
雪の降る日だった。誰からも見送られずに郁子は娘と二人、早朝旅立った。
ユキナは何もかもが許せなかった。特に大切な父親のものを捨てた母親が許せなかった。
郁子は知っていた。思い出の品があれば、心優しいユキナがその思い出の呪縛から抜け出すのは容易ではないことを。しかし、そんな思いを決して口にしなかった。寧ろ自分への憎しみが、逆に生きる原動力のもとになってくれるのならば、それでも良いとさえ考えたのである。それに自分を憎んでくれたなら、仮に自分が死んでも再び深い悲しみに襲われることがないだろうとも。
一緒に列車に乗るとき、ユキナは母親の手を振り解き、「私はお母さんを許さない」と呟いた。少女の鞄の中にある一枚の写真しか、父親がこの世にいたことを証明するものはなかった。
郁子はそれに気づいたが、そんな娘を無視した。
『さようなら、あなた。私はもうここには来られないと思う』と涙を流したが、娘には、その涙を見せなかった。
春子は郁子と娘のために骨を折った。住む家や働き口など。しかし、郁子は「お金までいただいたら、卑しい人間になります」と金銭的な援助だけ言って受けなかった。
郁子はユキナを厳しく育てた。ユキナは反発しなかったが、口もめったに利かなかった。「卒業したら、絶対に独り暮らしをする」と口癖のように言った。
ユキナは高校を卒業したら、すぐに就職しようと思ったが、就職難だったので、専門学校で洋装を学ぶことにした。そ
「働いたら、学校で使った金は返すから行かせてよ」と頼んだ。横柄なものの言い方に、母親に「そんなの当たり前の話よ」と応えた。
ユキナは専門学校を卒業すると同時に大阪のアパレル関係の会社に就職した。就職してから、ほとんど家に帰らなかった。そして、二年が過ぎた。
郁子のがんが再発した。ユキナにも母親が重大な病気になった知らせが春子からいったが、ユキナは帰ろうしなかった。寧ろ、父の思い出の全てを捨て、父の墓参りもろくにしない天罰が当たったのだとさえ思っていた。
いよいよ手術が間近に迫ったとき、春子が悪い足を引きずりながらユキナを訪ねた。
ユキナは天真爛漫な春子が大好きだった。笑顔で迎えると、春子は「あんた、どういうつもりだい? 母親が生きるか死ぬかという瀬戸際なのに!」と怒鳴った。
「死んでも、当然よ」とユキナは言い返した。
「何だって! あんたは知っているの。あなたを育てるためにどれだけ苦労したか!」
春子はユキナに滔々と言い聞かせた。どれだけ頭を下げ、借金を重ねて、苦労しながら、学校を卒業させたことを。
「あなたが行きたいという金のかかる専門学校なんか行かせず、なぜ働かせなかったのかと聞いたら、娘の一生のことだからと言って頭を下げ借金したんだよ。やっと借金を返して楽になれると思ったら、今度は病気だよ。本当はずっと前に具合が悪かったはずなんだ。あんたがまだ学生だったから、医者にも掛からず、がまんして耐えてきたんだ。どうしてそんなひどいことが言えるんだい?」
春子は涙をこぼして本当に怒っている。その怒りはユキナにも十分に分かった。こんなに怒られたのは初めてだった。いつもにこにこしていたのに、そのときは憤怒をあらわにして羅刹のような顔だった。そして、母親が学校を出すためにどれほど苦労したかも初めて知った。けれど、心の整理がつかなかった。ユキナの生きる原動力は母親の憎しみだったから。
「でも、私は許せないの。お父さんの何もかも捨てたお母さんを。何もかも捨てたの。お母さんは……」と泣きじゃくった。
「大切なものって?」と春子は聞き返した。
「写真とか、服とか、何もかも……」
「何を言っているの! そんなものはいつか消えるんだよ。私のお兄さんは私が小さいときに死んだよ。十五歳も歳が離れていて、いつも可愛がってくれた。別れの日、優しく頭をなぜてくれたのは、今も覚えているよ。温かくて大きな手だった。思い出の品は何もないけど、そして今も心の中に生きている。一番大切なものは心の中にあるんだよ」
ユキナは驚きの色を隠せなかった。
「ユキナ、あなたは聞いていないかもしれないけど、お父さんの遺書には“すまない。娘を頼む”と書かれていたそうよ。その一言でどんな思いで自殺したのかが分かったって。その思いを大切にして生きてきたの。それがあなたには分からないの」
「じゃ、どうして、大切な思い出の品物を捨てたのよ?」
「それは分からない……生きるためかしら。思い出に浸っていても、人は生きられない。そういえば、よく言っていた。“まずは生きて働かないと、娘を育てられない”とまるで念仏を唱えるように言っていた。そして、“私は何にもないから働くのは大変だけど、あの子は少しでも何か技術でも身に着けて楽に生きてほしい”とも言っていたよ」
「お母さんは何もそんなことを言わなかった!」とユキナは泣いた。
「あなたの重荷になりたくないとも言っていた。でも、死ぬかもしれないのに、あなたは会わなくてもいいの?と聞いたら、“いい”と言ったよ。“あの子がちゃんと育ってくれた。お父さんとの約束は果たした”と涙を流しながら笑ったよ。馬鹿だよ、郁子は。でも私は我慢できないの。あんな苦労して生きてきたのに、娘に憎まれたままだなんて……化粧もせず、服だってろくに買わず、ときには昼飯でさえ抜いた苦労したのに、何で、その娘が生きるか死ぬかという瀬戸際で会いに来ないのよ……」と言うと、ハルナは春子に抱きついて泣きじゃくった。
「ごめんなさい。許して、何も知らなかった。ごめんなさい」
「分かればいいんだ。明日の朝、一緒に行こう。……もう泣くのはおよし」と春子は抱きついたままのユキナの頭を撫ぜて微笑んだ。