京都七景【序章】
わたしはかつて、学生の四年間を京都で暮らしたことがある。高校二年の秋、十一月、修学旅行に来て一目で気に入ってしまったのである。真っ青な空と、鮮やかな紅葉の間に凛として漂う冷気が、秋の京都をわたしに深く印象づけた。
「いいなあ。学生生活を送るなら京都しかないな」
わたしはさっそく受験勉強を開始した。そうして、翌々年の三月、仲間四人と連れ立って京都の大学を受験した。これはそのときにはじまる、お話である。
「おい、歩いていこうか」
「ああそうしよう」
「これくらいなら歩いて行けるな、たぶん」
中の一人が地図をたたんだ。
こうして私たち五人は受験する大学の下見に出かけた。京都のある大学を受ける仲間である。ところが、一時間歩いても大学にはなかなか着かなかった。
「なあ、遠くないか」
「道を間違えたかな」
「そんなわけないさ。一本道なんだから」
「どこを歩いてるのかな?」
一人がまた地図を開いた。
「地図を見たって分からないさ。地名を見つけてからじゃないと」
「でも清水寺は過ぎたと思うよ」
「どうして、そんなことが分かるんだい?」
「だって、さっきのバス停に『清水道』って書いてあったぜ」
「へえ、そうか、見落としたな」
「おれ、あそこのバス停、見てくる」一人が近くのバス停に駆けていって、大声でどなった。
「ひがしやまやすいー!」
「ひがしやまやすい?そんな地名あったかな」みんなの顔が地図を取り巻いた。
「おう、ここだ、ここだ、東山安井。うっかり見落としそうな場所だぜ。なあんだ八坂神社のすぐ近くじゃないか」
「と言うことは、これから祇園だろ。うへえ、まだ半分だ」
「半分か。どうする、市電にでものるか」
「せっかくここまで歩いたんだ、最後まであるこうや」
「そうだな、今年は下見だしな」
「そうだな、下見だろうな」
「ははははは」みんな、ちょっぴり恥ずかしそうに笑った。
それから、たっぷり一時間歩くことにはなったが、誰も文句を言わなかった。
大学が近づくと、みんな緊張の面持ちになった。正門に立って時計台を見た。なんともいえず清々しかった。
「来たな」
「ああ」
「時計台の落書きが何とも大学らしいぜ」
「ああ」
「ここしかないな」
「うん」
私たちは武者ぶるいをした。
「ひとまわりしてみようか」
「うん」
私たちは、看板や貼り紙のたくさんある建物の間を、何でも無暗と感心しながら歩いていった。
楠が何本もあった。人は誰もいなかった。空は青く澄んで、飛んで行く雲の白さがまぶしかった。楠の下でみんな空を見上げた。穏やかな風にのって肩のあたりをさらさらと風花が通りすぎていった。
「いいなあ」
「ああ」
「来年だな」
「来年だな」
みんな顔を見あわせて笑った。
一通り見終わると、裏門からバス停に行った。バスはなかなか来なかった。
「きみたち、受験生?」
後ろに並んだばかりの二十歳くらいの青年が声をかけた。
「ここは、自由やぞ。きっと受かれよ」
そう言うと青年は別のバスに乗って行ってしまった。
「今の人、かしこそうだったな」
「何だか受かりそうな気がしてきたぜ」
私たちはもう、その青年の一言で受かる気になってしまった。
「おれ、ちょっと寄るところがあるから」と、中の一人が途中で別れた。あとで聞くとパチンコをして来たのだそうだった。
「どうせ今年は受かるわけないから、好きなパチンコをしてきたわけよ」
「なあんだ、それなら誘ってくれればよかったのに」
この一言にみんなまた落ち込んでしまった。
宿の部屋は別々だったが、いつの間まにかみんな集まってきては、四方山話に花を咲かせた。教師のうわさや、ここは美人が多いが宿の弁当はもう一つだとか、理想の女性論などを話しているときに、誰かがぽつんと、
「おれたちどうなるのかな」と言ったらもういけない。あとはもう暗い話が延々と続くのだ。
「おれは浪人さ」
「おれも」
「おれもだな」
「おれも入れといてくれよ」
まるで山彦のように響きあう。そんなことがまた妙にうれしかった。
「また来年も同じメンバーで来ような」
「おう」
私たちは固く約束したものだ。
ふと気がつくと、もう真夜中を回っている。外を見ると駅が目の前だ。車の往来も格段に減って来た。駅前の屋台から白い湯気が立ちのぼっている。
「ラーメン食べに行こうや」
「よし、今夜の記念に食いに行くか」
みんなそろって出かけたものだ。ラーメンは大した味でもなかったが
「あんたら、ガクセイさん?」といぶかしそうにおばさんが尋ねた。事情を話すと、「たいへんやな。おきばりやす」と言って見送ってくれた。あとで部屋の窓から顔を出すと、手を振っていた。
それから試験が三日続いた。私たちは試験を終えると、帰路につく決心がなかなかつかなかった。
「せっかく来たから見物して行こうか」
「そうだな、あの塔にのぼるか」
私たちは塔に登った。
「料金の割に、たいした高さでもないな」
「きれいでもないぜ」
「山が見えるな」
「また来れるかな」
「また来るさ」
「来年な」
「ああ、来年な」
塔を降りる頃には霧雨になった。私たちは近くの寺で雨が止むまで待った。
大きな寺だった。廂の下で鳩が飛ぶのを見ながら黙ってたたずんだ。みんなもの思いにふけっていた。
「明日があるさ」
「帰ろうか」
「帰ろう」
私たちは駅に向かった。
その年、私たちはそろって大学に落ちた。次の年、誓いを守ったものはわたしだけだった。あれから消息のわかったものは二人しかいなかったけれど、わたしは今でも時々、このときのことを思い出している。