覆水盆に返らず
「久しぶり、元気だった?」
3年ぶりに見た由美は、教会の修道女みたいに地味で控えめな感じになっていた。付き合っていた頃は、いつもケバケバしくて派手に着飾っていたのに、3年の間に一体何があったのだろう。
由美と別れたのは3年前だ。酷い別れ方だった。正確に言うと、俺が捨てられたのだ。
大学の時は人間の屑同然の生活をしていた。学業よりもサークル活動に夢中だった。サークルは、体育会系にも文化系にもカテゴライズされることのない、サークルという名前があるだけの実態のない組織で、飲み会が主な活動内容だった。部員どうしの親睦を深めるというもったいつけた理由で女を飲みに誘い、身上が潰れるまで飲ませて、そしてホテルに連れ込む。大学生活で手に入れた自由と仕送りの金のほとんどは、そういう愚かな目的のために使われた。
由美もそのサークルの部員だった。誘ったのはもちろん俺だ。と言うが、彼女がイタリアの往年の女優、ソフィア・ローレンに似ていたことが、食指を動かしたわけではない。彼女は学業よりも水商売(キャバクラに勤めていた)を優先させるような女で、財力が潤沢であると同時にそっち方面にも顔が利いた。要するに、有用な女だったのだ。この女を使わない手はないだろうと思って、俺が口説いた。
由美は、サークル活動の重要な資金源になったし、良い女を次々と送り込んでくれたが、俺にとって救いだったのは、宿と3食の飯を提供してくれたことだった。屑同然の生活で親から仕送りを止められたうえに下宿からも追い出された俺を、由美は自分の下宿に招いた。大学2年の終わり頃のことで、それから半年あまり、メシを食ってフロに入ってセックスをしてサークル活動をするという自堕落な生活が続いた。
突然の別れが訪れたのは大学3年の秋だ。或る日の朝、いつものようにサークル活動を終えて由美のアパートへ帰った。ポケットから合い鍵を出して鍵穴へ入れたが、鍵が換えられていて扉が開かなかった。怒った俺は、近所迷惑も省みずにピンポンを何度も押し続けた。やがて、ドアが開いたが、出てきたのは由美ではなく、ホスト風の男だった。男は奥にいる由美に「こいつか?」と確認を取った後で、俺の胸倉を掴み、顔面にパンチを浴びせた。わけのわからないまま、俺は仰向けに倒れた。その上を冷たい雫が落ちた。空を塞いだ厚い雲から女の涙のような雨が降り注いでいた。
あれから3年が経ち、俺は曲がりなりにも地方の銀行へ就職した。毎朝5時半に起きて、髪を整えて、歯を磨いて、仕立ての良いスーツに着替えて、6時45分の電車に乗って職場へ通う毎日だ。職場での俺に対する評価は概ね好意的だ。同期の中では成績が一番高く、大企業相手に巨額の融資を任されるほどだ。プライベートでは、結婚を約束している女だっている。すべてが順風満帆、大学時代の自堕落な生活が嘘のように思えるほどだ。
「由美は昔みたいに派手じゃなくなったな」
ウエイトレスが運んできたカプチーノを啜りながら俺がそう言うと、由美は伏し目がちに「3年もあれば、人間は変わるよ」と答えた。彼女は、良い意味で変わった俺と違い、悪い意味で変わってしまったようだった。キャバ嬢みたいにクルクル巻いていた髪はストレートになって一本に束ねられ、化粧は小悪魔メイクからナチュラルメイクになり、服は胸の谷間や尻の割れ目が見えるような派手なやつではなくてスーパーの婦人服売り場で安売りしているような地味なものになり、まるで人間そのものが変わってしまったみたいだ。3年もあればと言うが、3年でここまで変わってしまう人間を俺は見たことがない。
「私ね、結婚したの」
「そ、そうなんだ。誰と? まさか、あの男じゃないよね?」
あの男というのは、3年前に俺を殴ったホスト風の男だ。
「違うよ。あんな男とはすぐに別れたよ。もっとちゃんとした人だよ」
由美子は話し始めた。まるで、自分の罪を告白するかのように、落ち着いたトーンで。
彼女はホスト風の男と別れた後、外資系の証券会社に勤める男と交際を始めた。そいつは彼女が勤めている店の常連だった。社会的な地位があって、金を持っていて、そのうえ優しい。まるで、女の膣を濡らすために存在しているかのようなその男に、彼女は惹かれたのだそうだ。そして、結婚した。今は六本木にある高層マンションでスノッブな生活を送っているという。完璧じゃないか、非の打ちどころがまるでない。そんな幸せに溢れた生活を送っていて、まだ何か不満があるというのか、この女は。話を聞いている俺が苛々してくるほどに完璧であったにもかかわらず、由美は暗い表情をしていた。あたかも、この世の不幸を全部背負ってしまったように。
「羨ましいな。そんな完璧な男と結婚できて、六本木の城みたいなマンションに住んでるんだろ? 最高じゃん。映画みたいな人生だな」
「そうでもないよ」
そう言うと、由美はスーパーの婦人服売り場で買ったような安物のカーディガンの、襟元の部分を捲ってみせた。「おいおいやめろよ、こんなところで」と制止しようとして、俺は閉口した。肩口から鎖骨にかけて、青黒い痣が刻まれていたからだ。
「DVに遭っているのか?」
「うん、優しい人だと思っていたんだけど」
「思っていたじゃねえだろ。お前、騙されてたんじゃねえのか」
「そうみたい」
「そうみたいって」
大学の同窓会が先月にあったからだろう、由美は俺の連絡先を誰かから聞いて、3年ぶりに連絡を寄越してきた。今更何の用だと思って来てみたが、どうやら理由はこの痣にあったらしい。
「あたしね、家を追い出されちゃった。お前みたいなブタのような女に、この家は合わない。外で野垂れ死ぬ方がお似合いだって……」
「それで俺に会いに来たの?」
「うん……ごめんね」
「で、俺にどうしろと?」
「あなたのところに置いてもらうわけにはいかないかな」
俺はマイルドセブンを銜えて火を付け、ウィンドー越しに外の景色を見た。街路樹が等間隔に植えられた歩道を、若い男女が歩いている。2人の指には指輪がはめられているので、新婚のカップルなのだろう。俺もじきに今の女とああやって歩くことになる。幸せは目の前だ。近くにあって手を伸ばせば得られるものを、みすみす逃すわけにはいかない。
「調子の良い女だと思っているよね。だって、昔、あなたにあんな酷いことしたんだもの。許されるわけがないと分かっている。でもね、私にはあなたしか頼れる人がいないの。私、あなたを失ってから気付いた。あなたがどれだけ大切な人だったかっていうことに。だからね、ムシの良い話だとは思うんだけど、私とヨリを戻してもらうわけにはいかないかな。今の私ならあなたを昔以上に愛せる自信がある」
深い沈黙が流れた後、俺は答えた。
「いいよ……」
「え?」
「ヨリを戻してもいいよ」
「本当に?」
「ああ」
「嬉しい……」
「いいよ、ただし……」
俺はそう言って、グラスに入っていた水を由美の頭の上から垂らした。
「ちょっと、何すんのよ」
3年ぶりに見た由美は、教会の修道女みたいに地味で控えめな感じになっていた。付き合っていた頃は、いつもケバケバしくて派手に着飾っていたのに、3年の間に一体何があったのだろう。
由美と別れたのは3年前だ。酷い別れ方だった。正確に言うと、俺が捨てられたのだ。
大学の時は人間の屑同然の生活をしていた。学業よりもサークル活動に夢中だった。サークルは、体育会系にも文化系にもカテゴライズされることのない、サークルという名前があるだけの実態のない組織で、飲み会が主な活動内容だった。部員どうしの親睦を深めるというもったいつけた理由で女を飲みに誘い、身上が潰れるまで飲ませて、そしてホテルに連れ込む。大学生活で手に入れた自由と仕送りの金のほとんどは、そういう愚かな目的のために使われた。
由美もそのサークルの部員だった。誘ったのはもちろん俺だ。と言うが、彼女がイタリアの往年の女優、ソフィア・ローレンに似ていたことが、食指を動かしたわけではない。彼女は学業よりも水商売(キャバクラに勤めていた)を優先させるような女で、財力が潤沢であると同時にそっち方面にも顔が利いた。要するに、有用な女だったのだ。この女を使わない手はないだろうと思って、俺が口説いた。
由美は、サークル活動の重要な資金源になったし、良い女を次々と送り込んでくれたが、俺にとって救いだったのは、宿と3食の飯を提供してくれたことだった。屑同然の生活で親から仕送りを止められたうえに下宿からも追い出された俺を、由美は自分の下宿に招いた。大学2年の終わり頃のことで、それから半年あまり、メシを食ってフロに入ってセックスをしてサークル活動をするという自堕落な生活が続いた。
突然の別れが訪れたのは大学3年の秋だ。或る日の朝、いつものようにサークル活動を終えて由美のアパートへ帰った。ポケットから合い鍵を出して鍵穴へ入れたが、鍵が換えられていて扉が開かなかった。怒った俺は、近所迷惑も省みずにピンポンを何度も押し続けた。やがて、ドアが開いたが、出てきたのは由美ではなく、ホスト風の男だった。男は奥にいる由美に「こいつか?」と確認を取った後で、俺の胸倉を掴み、顔面にパンチを浴びせた。わけのわからないまま、俺は仰向けに倒れた。その上を冷たい雫が落ちた。空を塞いだ厚い雲から女の涙のような雨が降り注いでいた。
あれから3年が経ち、俺は曲がりなりにも地方の銀行へ就職した。毎朝5時半に起きて、髪を整えて、歯を磨いて、仕立ての良いスーツに着替えて、6時45分の電車に乗って職場へ通う毎日だ。職場での俺に対する評価は概ね好意的だ。同期の中では成績が一番高く、大企業相手に巨額の融資を任されるほどだ。プライベートでは、結婚を約束している女だっている。すべてが順風満帆、大学時代の自堕落な生活が嘘のように思えるほどだ。
「由美は昔みたいに派手じゃなくなったな」
ウエイトレスが運んできたカプチーノを啜りながら俺がそう言うと、由美は伏し目がちに「3年もあれば、人間は変わるよ」と答えた。彼女は、良い意味で変わった俺と違い、悪い意味で変わってしまったようだった。キャバ嬢みたいにクルクル巻いていた髪はストレートになって一本に束ねられ、化粧は小悪魔メイクからナチュラルメイクになり、服は胸の谷間や尻の割れ目が見えるような派手なやつではなくてスーパーの婦人服売り場で安売りしているような地味なものになり、まるで人間そのものが変わってしまったみたいだ。3年もあればと言うが、3年でここまで変わってしまう人間を俺は見たことがない。
「私ね、結婚したの」
「そ、そうなんだ。誰と? まさか、あの男じゃないよね?」
あの男というのは、3年前に俺を殴ったホスト風の男だ。
「違うよ。あんな男とはすぐに別れたよ。もっとちゃんとした人だよ」
由美子は話し始めた。まるで、自分の罪を告白するかのように、落ち着いたトーンで。
彼女はホスト風の男と別れた後、外資系の証券会社に勤める男と交際を始めた。そいつは彼女が勤めている店の常連だった。社会的な地位があって、金を持っていて、そのうえ優しい。まるで、女の膣を濡らすために存在しているかのようなその男に、彼女は惹かれたのだそうだ。そして、結婚した。今は六本木にある高層マンションでスノッブな生活を送っているという。完璧じゃないか、非の打ちどころがまるでない。そんな幸せに溢れた生活を送っていて、まだ何か不満があるというのか、この女は。話を聞いている俺が苛々してくるほどに完璧であったにもかかわらず、由美は暗い表情をしていた。あたかも、この世の不幸を全部背負ってしまったように。
「羨ましいな。そんな完璧な男と結婚できて、六本木の城みたいなマンションに住んでるんだろ? 最高じゃん。映画みたいな人生だな」
「そうでもないよ」
そう言うと、由美はスーパーの婦人服売り場で買ったような安物のカーディガンの、襟元の部分を捲ってみせた。「おいおいやめろよ、こんなところで」と制止しようとして、俺は閉口した。肩口から鎖骨にかけて、青黒い痣が刻まれていたからだ。
「DVに遭っているのか?」
「うん、優しい人だと思っていたんだけど」
「思っていたじゃねえだろ。お前、騙されてたんじゃねえのか」
「そうみたい」
「そうみたいって」
大学の同窓会が先月にあったからだろう、由美は俺の連絡先を誰かから聞いて、3年ぶりに連絡を寄越してきた。今更何の用だと思って来てみたが、どうやら理由はこの痣にあったらしい。
「あたしね、家を追い出されちゃった。お前みたいなブタのような女に、この家は合わない。外で野垂れ死ぬ方がお似合いだって……」
「それで俺に会いに来たの?」
「うん……ごめんね」
「で、俺にどうしろと?」
「あなたのところに置いてもらうわけにはいかないかな」
俺はマイルドセブンを銜えて火を付け、ウィンドー越しに外の景色を見た。街路樹が等間隔に植えられた歩道を、若い男女が歩いている。2人の指には指輪がはめられているので、新婚のカップルなのだろう。俺もじきに今の女とああやって歩くことになる。幸せは目の前だ。近くにあって手を伸ばせば得られるものを、みすみす逃すわけにはいかない。
「調子の良い女だと思っているよね。だって、昔、あなたにあんな酷いことしたんだもの。許されるわけがないと分かっている。でもね、私にはあなたしか頼れる人がいないの。私、あなたを失ってから気付いた。あなたがどれだけ大切な人だったかっていうことに。だからね、ムシの良い話だとは思うんだけど、私とヨリを戻してもらうわけにはいかないかな。今の私ならあなたを昔以上に愛せる自信がある」
深い沈黙が流れた後、俺は答えた。
「いいよ……」
「え?」
「ヨリを戻してもいいよ」
「本当に?」
「ああ」
「嬉しい……」
「いいよ、ただし……」
俺はそう言って、グラスに入っていた水を由美の頭の上から垂らした。
「ちょっと、何すんのよ」