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サルバドール
サルバドール
novelistID. 32508
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いつか見た風景・第5章

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車が闇夜を縫って田園地帯の前を通り過ぎ、鉄橋に出ていく。フロントから伸びた光の筒は、濡れた路面を照らすばかりでなく、橋の下にも零れ落ちて川面を黄色く染める。眼下には濁った水を湛えた川が拡がっていて、空の鈍色をそのまま映した表面に、雨が大小の波紋を浮かべている。車は鉄橋を渡り終えて、脇道へ降りていく。その先には、閑静な住宅街があって、チェスの駒のように点在する民家の向こうに、雨で黒く澱んだ建物が建っている。浦澤の社宅だ。光の筒はそこへ向かって移動し、やがて止まった。ドアが開き、中からハイヒールに包まれた女の足が伸びた。女は、濡れた路面を2、3歩歩いてから、赤い傘を開いた。男が出てきて、その下に身を潜らせる。背後でドアが音を立てて閉まったかと思うと、エンジンが低い唸りを上げた。車が走り去った後、小さな赤い点が雨を弾いて移動し、建物の中へゆっくりと吸い込まれていった。

浦澤は郵便受けを覗いた。小さな紙切れのようなものがこれみよがしに入れられている。中へ手を伸ばしてそれを取り、目の前に引き寄せた。宅配便の不在票のようである。送り主や内容については一切触れられておらず、明日の午前10時~11時の間にまた送り届ける旨が書かれている。上から視線を感じて、浦澤は顔を上げた。明菜が階段の上段に立って、こちらを見下ろしている。浦澤は紙切れを小さく畳んで懐に仕舞った。明菜の後を追って階段を昇っていく。ハイヒールの打ち鳴らすコツコツという音が、建物全体に谺する。それは三階の或る部屋の前で鳴り止んだ。明菜が振り返った。浦澤はポケットから部屋のカギを取り出すと、穿たれた鍵穴に挿し込んだ。蝶番の軋む音が響いてドアが開き、じめじめとした空気が首元や肌にまとわりついた。明菜は、靴脱ぎにハイヒールを脱ぎ捨てるなり、無遠慮に部屋へ上がり込んだ。悪いけど、先にシャワー浴びさせてもらうわね。何回も来ていて間取りを把握しているのか、女は灯りも点けずに闇の中を進んでいく。浦澤は赤いハイヒールを爪先が外に向くようにして揃え、その横に自分の靴を置いた。部屋には深い闇が拡がっており、埃がふわふわと舞うのが微かに見える程度だ。浦澤は壁に手を這わして電灯のスイッチを押した。天井に吊り下げられた電気傘の中で淡い光が一瞬起こり、それは激しく明滅を繰り返してから、ゆっくりと部屋の中へ拡がっていった。光に舐められるまま、灰色の壁がその姿を表していく。壁は煙草の脂を吸って茶色く汚れ、所々に生じた罅割れから建材が剥き出しになっている。部屋が完全な白に染められた後、浦澤は台所へ行って水道の蛇口を捻った。迸った水を頭や顔に満遍なく掛ける。流し台には、油の染みついた食器や穴のあいたカップラーメンの容器が放置されていて、強烈な臭いを放っている。浦澤は、洗い籠からコップを取り出すと、蛇口の下に宛がった。手垢のついたコップに塩分を含んだ水が注がれていく。浦澤は、それを一気に飲み干すと、換気扇のスイッチを押してリビングへ向かった。汚れた羽根がカタカタと音を立てて回り出す。

リビングとは名ばかりの狭い空間には白色の光が垂れている。茶色い染みが目立つ壁には、誰が描いたものなのか分からない、蛇に舌を貫かれた裸婦の画が掛けられてある。電気傘のちょうど真下にくるようにガラス製の黒いテーブルと二人掛けのソファが配されていて、その対角線上に32インチ型のプラズマテレビが置かれてある。浦澤はソファに腰を下ろすと、吸い殻の溜まった灰皿を手前に引き寄せ、煙草に火を灯した。テーブルの上には、灰皿のほかに、空のワインボトルやテレビのリモコン、読みかけの詩集などが載っている。詩集は、ランボーの作品を寄せ集めたもので、見開かれたページには赤のボールペンでぎっしりと書き込みがしてある。浦澤はテレビのリモコンを手に取って電源を入れた。画面が光を発して一瞬で映像が表れる。眼鏡を掛けた男のアナウンサーと化粧の濃い女のアナウンサーが画面一杯に映し出されていて、神妙な面持ちでニュース原稿を読み上げている。円高が急速に進んで日銀が円売りドル買いの為替介入を始めたとか、被災地の復興が遅々として進まないとか、日本とアメリカの基本合意が政治の混乱のために白紙にされたとか、そんな暗い話題ばかりだ。浦澤はすぐにチャンネルを替えた。次に映し出されたのは一本の映画だ。10年以上前にインド系の監督が撮った作品で、これまでに何度か地上波で放送されている。今映っているのは、子役の少年がブルース・ウィリス扮する児童心理学者に或る秘密を告白するシーンだ。少年はベッドの上に居て、声を震わせながら打ち明ける。ぼく、死んだ人が見えるんだ。その台詞を聞いて、浦澤は苦笑いを浮かべた。死んだ人が見えるんだ、死んだ人が見えるんだ、死んだ人が見えるんだ、それは壊れたラジオのように頭の中で繰り返された。テレビを消し、浦澤はソファの上に仰向けになった。銜え煙草でぼんやりと天井を眺めていると、テーブルの上で携帯が振動し始めた。加奈子からだ。浦澤は身を起して通話ボタンを押した。