おばあちゃんの雛人形
リノリウムが貼り巡らされ、医療器具と簡易ベッドがある以外は何もない殺風景の部屋で、ミイラのように痩せ細った祖母が、全身に管を繋がれながら、最期の時を迎えようとしていた。祖母のベッドを囲むようにして、父と祖母の主治医が相対している。2人は共に暗い表情だ。父は私の存在に気付くと、何も言わずに首を静かに振った。母が私の肩にそっと手を置いて、
「おばあちゃん、もうあかんみたいや。最後に挨拶してあげて」 と言った。
私は祖母の主治医に会釈してから、祖母の側へ歩み寄って皺だらけの手を握りしめた。冷たい手だった。人間の手ではなく、針金を握っているような感触があった。背後から母の声が聞こえてきた。
「おばあちゃんな、こんなことになってから、私らのこととか、みーんな忘れてしもたけど、どういうわけか、あんたのことだけは覚えてるみたいなんや。看護婦さんも言うとったわ。当直で院内を歩いてたらな、おばあちゃんの声が聞こえてきたんやって。耳を欹てたら……」
母の声は次第に涙声になった。
「恵子、恵子って何度も呼んでたんやって……」
泣き崩れる母に呼応するかのように、祖母の手を握る私の手に力が入った。握れば握るほどに壊れてしまいそうな手だったが、私は構わずに強く握りしめた。幼い頃によくそうしたように。
昔の私は、周りの人間が呆れるほどのおばあちゃん子だった。お母さんやお父さんよりもおばあちゃんが好きだ、と平気で言ってしまうような子だった。どうやら、私には祖母を独占したいという願望があったようで、祖母自身もそれを分かっていた節があった。祖母は、しばしば、私を散歩に連れ出した。私はそれが楽しみで、学校から帰るとすぐに祖母の部屋へ飛んで行き、彼女に「お出かけしよう」とねだった。祖母は微笑んで、幼い私の手を掴んだ。祖母に手を引かれて、近所を散歩したり、時には電車に乗って遠くへ出かけたりするのが、幼い私には嬉しかった。行き先なんてどこでも良かった。ただ、祖母と一緒にいられさえすればそれで良かった。祖母のあったかくて大きな手に引かれるのが心地よかっただけなのだ。私は祖母の手をいつまでも握っていたかった。いつか大人になっても、彼女と散歩をしたいと思っていた。
だけど、そういう気持ちは、あの日を境に薄れていった。あの人形を壊してしまってから、私は祖母に近づかなくなった。部屋にも行かなくなったし、ご飯の時でも顔を合わさなくなった。そうした態度は祖母への後ろめたさの裏返しだったけれど、当の本人は悲しかったに違いない。私という寄る辺を失った彼女は、生気を無くしたようにいつも寂しそうにしていた。
ゴメン、と一言謝ればそれで良かった。でも、言えなかった。言えないまま、時間だけが流れた。時の流れは、私たちの溝を更に深くした。私は40手前のおばさんになり、祖母はもう人としての役割を終えようとしている。今更、何を言ったところで、祖母の心には何も届かないだろう。でも、私は今、こうやって祖母の最期を見届けようとしている。それだけがせめてもの救い……。
「おばあちゃんね、私、おばあちゃんにずっと言えへんかったことがある」
祖母の手を握る手が震えた。
「おばあちゃんのひな人形壊したんはチロじゃない。あたし……あたしやねん……」
涙が溢れた。何十年も溜めてきた涙の結晶が壊れて一気に溢れ出したようだった。
「ごめん。ごめんな……」
絡み合った手と手に涙がポタポタと零れ落ちる。祖母の冷たい手が湿っていくのが分かった。私はベッドに倒れかかるように、その場にくずおれた。父が後ろから抱え起こそうとした、その時だった。針金のように冷たい祖母の手が私の手を力なく握り返した。
「おばあちゃん……」
彼女の手に、一瞬ではあったけれど、血が巡った。幼い頃、よく手を繋いで歩いた時の、あの温かい感触が甦った。私は震える手で彼女の手をもう一度強く握りしめた。すごくあったかい。すごく気持ちいい。
「最後に手を繋げて良かった」
その声に応えるかのように、祖母の手から温度がなくなっていった。窓越しに見えるプラタナスの樹から葉が一枚ひらひらと落ちた。
それから1カ月後、49日の法要が終わった後で私は祖母の墓へ赴いた。墓前に花を供え、目の前の石に語りかけるように言った。
「おばあちゃん、私な、今度結婚することにした」
横に立っている圭一郎の手を力強く握りしめた。圭一郎が「痛いよ」とおどけたように言った。
「頼りない人やけど、この人とやっていくって決めてん。応援して」
「頼りないって何だよ」
「頼りないじゃない」
今の私はあの頃よりも、ずっと自然に笑えている。過去を振り返らずに明日だけを見ようという気持ちがそうさせている。この人と一緒にやっていくことに決めた。この人となら、私は絶対に幸せになれる。私はもう、迷わない。
作品名:おばあちゃんの雛人形 作家名:サルバドール