かがり水に映る月
02.知ってはいけない言葉の星屑標本(1/3)
少しだけ開いていたカーテンは、夢の続きを彷彿とさせるようで英人にはひどく不気味に思えた。
仕事へ向かう荷物をまとめ終えると、早足でベランダの近くへ行きさっとカーテンを完全に閉め切る。
これで、やっと悪夢から一時的にではあるが解放される。ほっと、胸をなでおろした。
それでも、続く夢からは逃れられないのだが。最終的には薬に頼るしかないのだろうか、そう考える英人の顔色が曇る。
「……ん?」
静かな部屋の外で、異質な気配と音を感じた。ついつい、音がした方向に振り向いてしまう。
玄関の、そのまた向こう。どちらかといえば大型のマンションゆえ、住人が出入りしていてもなんら不思議ではない。
聞こえたのも悲鳴や騒音ではなく、ただの規則正しい、おそらくは足音だ。
しかし、それで腑に落ちないことがこの時一つあった。この階の通路を歩いていたような音が、突然消えたのだ。
まるで、何もかもを吸い込んでしまう闇に音を放り投げたように。
かといって、扉を開閉する音は聞こえてこない。そういえば、下の貼り紙に空き巣や不審者に注意するよう書いてあった気がする。
いつもより出発の時間が早いのは、英人の心がいまだに安定しきらず、一秒でも早く現実に身を埋めることで不安から逃げようという確固たる現れであった。だが、当事者がそんな冷静な自己判断をできるはずがない。
深層心理にそんなしこりがある、それだけの話である。何かがひっかかるから、忘れたい。それだけの情報が本人にあればいいのである。
急いていた。一人でいる部屋に、自分を鼓舞し支えてくれたり、ここが現実だと示してくれる存在はいない。
もう、いないのだ。
靴を履き、棚の上の鍵を取る前に英人はポケットに突っ込んだ携帯を取り出し、時刻を見た。
時刻を何度も確認するのは、彼の昔からの癖である。早めに行動すること、早めに帰宅することの二つを生前の真に言いつけられてからは、癖がより一層頻繁になり、一時期は病的なほどだった。
右手に携帯を持ったまま、左手でノブを掴む。押した途端――それは『一人の力で開閉されるもの』では、なくなった。
強く引っ張られるような反動で、扉の向こうへつんのめったのを、踏みとどまろうとした。
その際両手を双璧につき突っ張ろうとしたため、携帯は室内に投げ出される。フローリングの床と金属がぶつかる、音が響いた。
何度かがつん、がつんと跳ねて音は静まる。
英人自身も空気以外に存在するはずのない空間に『ぶつかり』、跳ね返るようにして室内に押し戻された。
靴置き場の段差に座るようにして、それでも上半身は激しい衝撃に床へと叩きつけられる。
ふらつく頭、揺れる視界。
その向こうに、なつかしい人を見た。
逃げられないのだと、悟った。――悪夢は覚めない。逃げる僕を、追い越していく。
「あけ、」
「扉、閉めて下さい!! 手! 離せ!! 手、手ぇっ!!」
「うわっ」
体勢を直し、ノブを握る一連の動作は素早かった。来訪者の顔をはっきりと見た日には動けない気がしたので、見ないままにする。
ぐっと自分の方に扉を引っ張ると、相手も負けじと抵抗してくる。扉を閉めさせないよう、がっちりと固定して何が何でもこじ開けようとしていた。平均的な女一人に力勝負で負けるほど英人も弱くはないが、腕っ節が強いかといえばそうではない。その上、今対峙している相手は英人よりずっと力が強いように思えた。
しばらくの間押しては引かれて引かれては押してを繰り返したのち、来訪者が勝ってしまう。
壁と扉とに手をつき、固定したところで英人をまっすぐに見、言った。
「お願い、開けて! 追いつかれちゃう!!」
「やめてください、ってば!! 何なんですか人呼びますよ!? ええ!?」
「お願い!!」
続く言葉が、言葉になっていなかった。直前でためらったのか、息だけが不自然に吐き出される。
だが、唇は確かに言葉の形をなしていた。
『しんじて』
英人は心底後悔したが――もう遅い。唇の動きで言葉を察したどころか、目を合わせてしまった。
悪夢が、完全に追いついた瞬間だった。どこか期待していた夢絵空事が、現実になった瞬間でもあった。
「ま、こと……」
「……」
呆然となった英人が無意識につぶやいた名前を聞いて、来訪者は気まずそうに目だけをそらした。
だが、手は力を緩めないまま動きを見せる。
がちゃり、と音がして。
扉が閉まった――外の通路には、誰も残らないまま。