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かがり水に映る月

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01.その夜に、僕は落ちてはいけない恋をした(2/3)



荒い息遣い。家まで、そう短くもない道のりをずっと走ってきたのだ。無理もない。
扉を閉め、いつもの動き通りに指が施錠をかける。がちゃり、という音を聞いて青年――蛍原英人は心から安堵した。
息を落ち着かせながら、扉に背を預けずるずるとしゃがみこむ。
「なんだよ、もう……」
目立たないように、そして万が一のため、部屋の電気は点けていない。真っ暗な空間に、英人一人が息をしている。
だんだんと、冷静に戻っていく思考。
あれは誰だったのだろう。何故あの場所を知っていたのだろう。あんな、場所に似合わない衣服を着て。
大体髪だって人並以上に長かった。腰までゆうに届いていただろう。花束の意味もわからない。
そう怖がる必要もなかったのだろうか。
――丑三つ時だぞ?
関わらなくて、逃げ出して正解だったのだろうか。
――そうかもしれない。
「お化け……いや、幻だ。夢でも、見たんだ……じゃないとおかしいよ……だって、あの顔は」

そっくりだった。
遠くても、暗闇に慣れた目である程度は顔も見えた。それは、死んだ自分の恋人とまったく同じ顔をしていたのだ。
こちらを支える包容力を持ちながらも、どこかかげりのとれない悲しげな瞳。
眉毛だって、鼻の形だって、唇を描く輪郭だって。
何一つ変わりはしない。
だから、喋りださなくてある意味助かったとも英人は思った。同じ顔に同じ声では、こちらもたまったものではない。
まだ、日も浅く忘れきれないというのに。
いや、だからこその幻だったのか。
「……」
気がたかぶってとてもじゃないが眠れない。
英人はおとなしく、玄関に座り込んだまま朝を待つことにした。
一人の部屋が、ひどく広く空虚に思えて、狭い靴置き場のスペースで震えていることしかできない、自分がそこにいる。
脳裏は過去を刻み続け、フィルムのように今までの出来事を再生し続けた。


英人の恋人。
名を、高階真という。年頃は近しくあったが、年齢より幼く世間知らずのふしがある英人は真にいつも頼っていた。
恋人というより、仲のいい姉と弟、という関係に周囲からすると見えたのかもしれない。
だが、世間の恋人と考えることは同様、一緒にいられるなら周囲の評価など二人は気にしなかった。
物事を客観的に見る力が欠如しており危なっかしい英人に、真が口をすっぱくして説教やアドバイスをすることも多く、英人はそれを心から信じ、すがった。言いつけには必ず従った。
他の誰が言っても聞き入れないようなことも、真が言えば英人はその通りにする。盲目的、といえばそれまでである。
だが、それでも二人の関係はうまく成り立っていた。
問題はなかった。
誰にでもある些事を除けば、何も。

真が内に病気を抱えていた事が判明したのは、そう遠くない――今年に入ってのことだった。
毎年の検査にも引っかかることはなかったというのに、突然倒れたと思えば次の瞬間には入院の手続き、精密検査という有様である。
全てが駆け足だった。英人の思考など、間に合うはずもない。
治らない病気では、なかった。だが、発病してからというものの、彼女は『目覚めない』。
意識が落ちている時はもちろん、起きている時も会話すらできないほどに静まっている。まぶたを上げもしない。
医者が病気の説明をしている中で、真の死の誘蛾灯に照らされたゆたうような状態を見、英人は深い絶望に落ちた。
もう自分の名すら呼んでくれない。
たった数ヶ月それが続くだけで、相手の声が思い出せなくなった。
記憶が磨耗していく。それは、恐怖以外の何物でもなかった。愛する人の全てが、自分の内から抜け出ていく。

そんな透明で空虚な世界でも、時間は流れていった。
真は、病気のせいでもなく、誰のせいにもできない理由で、世を去った。
その事実に突き当たった時、英人はひどく錯乱したという。今はずいぶん落ち着いた、とその時を知る親族や医者は言う。
変死。
白いベッドに横たわるそれは、血を流さない遺体だった。
首筋に二つ、虫さされのような痕が確認されたが、吸血鬼などという非常識な存在が認知されるわけもない。

記憶が磨耗していくとしても、全部をすっぱり忘れてしまうわけではない。
覚えていることが、たくさんある。
声だって、覚えている部分がある。顔だって。しぐさだって、クセだって、好き嫌いだって。
「……本当は、死んでなかった?」
乾いた唇でつぶやいた言葉は、本人ですら聞き取るのが精一杯なほど弱弱しかった。
「……まさか」
そんなわけがない。大体、それならさっき出会った時に相応の反応をしているはずだ。
びっくりさせようとしたとしても、限度がある。相手が逃げ出そうとしたなら、さすがにねたばらしをするだろう。
すきまから入り込んでくる冷たさに、英人はより強く自分のひざを抱いた。
そのまま、顔をうずめる。
「おかしいよ。こんなの、おかしい」
涙が出そうになるのを、必死にこらえながら――外が薄ら明るくなるのを迎える前に、眠らないつもりが気を緩めてしまったらしい。
英人は、深い眠りに落ちた。


作品名:かがり水に映る月 作家名:桜沢 小鈴