今年の春の乗客の話
今年の春の乗客の話
移動手段として、タクシーほど人に優しいものはない。と、思われたい。玄関から玄関までお運びするのだから、そう思って頂いて当然かも知れない。自分の家の前に電車が来てくれたらいいと、思っている人は少ないだろう。
「お気をつけて」おりるとき、笑顔でそう云って頂いた。そんなことを云いそうもない、
クールな感じの、美人のキャリアウーマン風だった。ジーンときた。
「ガソリンが少なくて大変ですね」
日に何度もそう云って頂いたのは、半年前。大地震発生後のことである。
「タクシーはLPガスだから大丈夫です」
「えっ!そうなんですか。良かったですね」
年配の女性は乗車してすぐ、いろいろ話しかけて来る。最初は天候や気候に関する感想や予測から始まる。そのあとで生活関連の話題。コンビニに食料がない。水もない。スーパーにお米がない。薬局にトイレットペーパーがない。
更に最近のニュース。大地震が来たときのこと、大津波の被害のこと、原発事故の今後のこと。民主党批判。総理大臣の評価。
そして、自分の家族についての愚痴。こんな息子で、こんな娘で困っている。嫁が口をきいてくれない。夫に話しかけても返事もしてくれない。隣の犬がうるさくて困っている。
にこやかに(運転中なので想像)話し始めることも多い。今度民謡の発表会で唄うことになったの!初孫がもうすぐ生まれるのよ!
呆気なく目的地に無事到着した。
「足がもうだめでね、おりるのもひと苦労よ」
「怪我しないように、ゆっくりおりてください」
そう云ったら高齢の女性は和菓子をくれた。ずっと前、初老の男の乗客から「カルメ焼き」を頂いたのを思い出した。
深夜になった。もうすぐ四十という感じの、友好的な態度の、話好きの男性の乗客だった。二十四時間営業のファミレスが目的地だった。
「運転手さん。気に入ったなあ。一緒に食事してください」
私は嬉しかった。朝から朝までの仕事で、二十時間以内にタクシー会社に戻らなければならない。だから、仕方なくそれを断った。
駐車場から出るまで見送られた。ギヤをバックに入れたかった。
了