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花は降れども

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着なれない制服のボタンがどこかひとつずれているような気がして、少女は足を止めた。
 左のてのひらで触って確かめると、今度は背中と首の辺りがきゅうっと痛む。
 背負った昔ながらのデザインのランドセルは、最近の新製品とは違い、子供の柔らかい肩にも遠慮なく食い込んでくるのだった。
(ここは、どこだろう)
 大嫌いな海の匂いが感じられない。こんなにたくさん桜が咲いている場所も、知らない。
 子供の中でも背の低い彼女の足とはいえ、死に物狂いで走って走って、ずいぶん遠くへ来てしまった。
 後ろを振り向く勇気はない。辺りを少し見回すだけで、帰り道などとうに分からないことが分かる。
 自分の足音のほかに音はなく、はらはらと散る遅咲きの春を見上げて、彼女は地肌から露出した樹の根に腰を下ろした。
「……にげて、きちゃった、よ……」
 空には薄紅の霞がかかり、見上げるだけで呼吸が苦しい。しばらくそんな穏やかな景色をぼんやりながめていたものの、彼女の小さな胸は不安にきりりと痛んだ。
『こんなところに迷い込むまで逃げてきたのか。お前、度胸あるなぁ』
 だから聞き覚えのない声で独り言に返事をされても、なめらかに答えを返すのは難しかった。
『疲れてんのか? 歩いて来たのか』
 彼女のつむじの上から降ってきた声の主は、桜にも劣らない純白の毛並みをした動物だった。姿かたちは昔TVで観たキツネに似ていると思ったが、夕焼け色の目の周りには真っ赤な線で文様が描かれていて、普通の――例えば図鑑に載っていたり、北海道にいたりする――キツネとは似ても似つかない。
 動物は器用に桜の幹を滑り降りると、口もきけないほど驚いている彼女の足元、三つ折りソックスに鼻先を擦りつけた。
『なぁ!』
 じゃれてくるその質量がくすぐったい。整った毛並みはほのかにあたたかくて、少年めいた声音に咎める色も勝ち誇った色もない。
 ただ純粋に、一緒に遊ぼう、と言われるのは久しぶりで、彼女は思わず動物を抱き寄せた。
「――うみのほうから、きたの」
 息をひそめて囁けば、ヒトとは違う感触の手が、そっと少女の胸をたたく。
「おかーさん……」
 瞼の裏に浮かべた母親の姿は、不機嫌な表情で小学校を睨み据えていた。少女はその手を振りほどいて、ランドセルの向こうに置いてきた。
 海沿いに聳える、あわいクリーム色で整えられた学び舎、あの中に一歩でも踏み入ってしまったら、夕方まで逃げられない。
 アサガオを育てろと言われれば芽すら出ず、教室では理由もなく笑われるばかりで、先生と呼ばれる大人達は訳もなくおそろしく……
 せめて本が読みたいと思っても、入学して間もない一年生はひとりで図書室に行くことさえ禁じられていて。
「こわくて、にげてきたの……」
 心臓が一つ鳴るたびに胸が痛んだ。耳の奥で溜息が聞こえる、どうして他の子みたいにちゃんとできないの、と嘆く。
 聞きたくないと首を振ると、流れた涙が温い毛皮を雨のように濡らした。
『……ここに迷い込んでくる奴はな、だいたい皆どっかから逃げてきたんだ』
「あたしのほかにも、いるの……?」
 身を震わせた少女に、白い獣は喉を鳴らしてわらった。
『いっぱいいるさ。そもそも、俺が逃げてきてここに住み着いたんだから、ここはそれでいいんだ』
 そしてめいっぱい身体を伸ばすと、地面と樹の根を覆う彼女のスカートをちょいと避けて、小さな花を一輪摘んだ。
 摘むというより千切るとか毟るとかそんな手つきに、不器用な手は手ではなく前肢なのだと、今更のように彼女は気づいた。
『土産だ。これ持って、そろそろ帰れ』
 ざあっと音がするほど強く、風が吹きつける。どうしてか、さきほどまでは感じなかった潮の気配がする。
 白い狐は腕の中からするりと抜け出し、四つ足で立って少女を促した。それを追って立ち上がると、よし、とばかりに革靴を撫でられる。
『六年頑張ったら、また会おうな』
 約束とも言えない約束を残して、獣は彼女に摘んでくれた花と同じ色の目を細めた。それが最後だった。
(六年は、ながいよ)
 真白い花弁の中で見失ったぬくもりが恋しくて、また涙がこぼれる。夢や幻を疑うまでもなく、小さなてのひらは深紫の花を握りしめていた。

「董子! どこにいるの!!」

 ランドセルを放り投げ、軽々とフェンスを乗り越えた少女は、海の匂いのしない路地裏に危なげなく着地した。
 着なれた制服のボタンがずれていないのを確かめ、ヘアゴムを思い切り引っ張ってみつあみをほどく。
 六年ほど前にも同じセリフで叱られた気がするな、などとぼんやり思い出すのは、ただの甘いノスタルジーだろうか。
 あれからそれなりに背も伸びたし、髪も伸びた。驚くべきことに、友達もできた。
 たくさん泣いて、でも笑える出来事もたくさんあって、いつの間にか母親や先生をそれほど恐ろしいとは思わなくなっていた。
 だから、頑張ったと言っていいはずだ。
「会いに来たよ、お狐さま」
『こんなところまでまた来るとか、お前、度胸あるなぁ』
 暮れなずむ空のように深い青紫を湛えているはずの双眸は、時を経て色を変え、今は朝焼けを思わせる紅色が彼女を見つめる。
「ひさしぶり」
 応えるように純白の尾を振る獣の前にしゃがみこんで、懐かしい体温をぎゅっと抱きしめた。
『……あんまり変わらねーな』
 そう言われる予感はしていた。この不思議な獣はきっと、年を取らない。
 だけどその一言が無性にほしくて、ここまで来たんだもの。
 口には出さないまでもお見通しなのだろう、狐は笑いながら、昔のままのやり方で少女の胸をたたいた。
『卒業おめでとさん、スミレコ』
 道端の菫は芽を出し、並木の桜はつぼみをふくらませ、どちらもまどろみながら花咲く日を待っている。
作品名:花は降れども 作家名:春雪メルロ