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乳房

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『乳房』

 吉川浩という男がいる。彼は剃刀ともいわれるほど頭の切れる男だ。一流大学を出て、外交官なった。そこで保守党の大物国会議員に見込まれ秘書となった。三十代半ばで国家議員に初当選し、まだ四十代の若さなのに、押しも押されもせぬ保守党の幹部である。若者に負けないくらいの活力がある。野心も隠さない。ひょっとしたら首相の座さえも夢見ているかもしれない。

三十八になった美しい妻和子がいるが、今は寝室を別にしている。だからといって色欲が途絶えたというわけではない。寧ろ、益々盛んになったといった方が正しいだろう。その証拠に、彼には若くて美しい愛人がいる。今までも何人もの愛人をつくったが、みな乳房の大きな女である。
どうして浩が和子に見向きしなくなったか? それは彼女の肉体にある老いたものを見たくないからであろうか? それとも若い張りのある乳房を追い求めているに過ぎないのか? 
 子供の頃から水泳をやってきた和子の乳房に張りがなくなったのは、つい最近のこと。それまでは毎日のように執拗に求めてきた浩が、二日間隔となり、一週間間隔となって、やがては何も求めなくなった。その間に白髪が少し出てきた。いつしか夜を別々に過ごすことになった。
冷たい夜、温もりのない夜、どんな思いで和子が過ごしてきたか、浩は考えたこともない。なぜ、和子が離婚をせずに耐えているかといえば、それこそ和子の限りない夫への限りない慈しみの他ならないであろう。議員は孤独であり、駆け引きの連続で心休まることがない。彼女の父田中文彦も同じように議員で、その苦労を子供の頃から見ていた。その父の秘書をしていたのが浩だった。浩はどこか、その父を真似ているような節があった。気弱なところを隠して豪放磊落のように見せる素振り。孤独やストレスを耐えるために酒や女に走るところなど。
和子は愛人に嫉妬したことも、また夫との離婚も考えたこともあったが、いつしか諦めた。母と同じように。
 花を活けること、それが今の和子の日々の楽しみである。裏庭には、花を活けるために季節の花が植えられてある。何気なくそれを飽きもせずにぼんやりと眺めていることもある。
 
運命はときに残酷なこともある。和子が新たな愛人の存在を知って、そのショックからようやく立ち直ろうとした直後、彼女は胸のしこりを感じた。冬の終わりのことである。いやな思いがして、病院に行った。検査の結果は乳癌だった。すぐに手術した方がいいと言われた。
 夜が来た。
和子はソファで夫の帰りを待った。しかし、夫は帰ってこない。不安と悲しさで涙が止まらなかった。次の日も帰ってこなかった。再び夜、浅い眠りのなかで、和子は何度も夢を見た。いずれにも乳房に係わる夢だった。その中でもっともおぞましい夢が大きな乳房をした女の夢であった。今の夫の愛人である。夢の中で彼女を呪った。しかし、呪いの言葉は愛人の耳には届かない。まるで馬鹿にしたように見る。薄笑いさえ浮かべている。その時である、ふと、どこからか声がする。乳房を切りとれと……。恐ろしさの余りに体が震える。耳を塞ぐ。しかし声は益々強く聞こえてくる。やめて叫ぶ。彼女が笑う。手が、体が、勝手に動く。自由はきかない。いつしかその手にはナイフが……。そこで夢が突然に途絶える。
 張りの失いつつある乳房に手をやる。しこりはひょっとしたらなくなっているのではないかという希望は、そこに手をやった瞬間に打ち砕かれた。もう一度確かめる。ある。それに日増しに大きくなっていく気がする。

その頃、浩は愛人とともに別荘で過ごしていた。三日目の朝である。美しい朝であった。薄い靄が出ている。
 朝日が窓から射している鏡には微かに朝焼けが映っている。鈍い光が床に散らばる。やがて、それをゆっくりと遮る裸体。豊かな乳房はつんと盛り上がっている。腰は針金のように細いが、臀部は豊かな女の性を表している。何かもが溢れる若さを表している。
 背後からひとつの影が忍び寄る。 ふたつの怪しげな影が壁に映る。それは不思議な影絵のような劇。
 ようやく沈黙が破れる。
「私のことを愛している?」
男は、「愛している」と呟く。しかし、その言葉はどこか虚ろだ。
「ねえ、本当に愛しているの?」と試すような眼差しを男に向ける。
「愛しているさ。君は?」
彼の愛の仕草は休むことはない。「分からないわ……」と女は気だるく呟く。
「正直だ。……愛する必要はなんかない。しかし、他の男と寝るのは止してくれ」
「それはあなたの頼みなの」と女が男の耳元で囁く。
「頼んでいるわけじゃない」と強く乳房を掴んだ。女は軽い悲鳴をあげた。
「いいか、これは命令なのだ」
「あなたは賢い人、わたしはあなたに仕える奴隷よ、お願いキスをして……」と切なく頼む。
 男の唇がそれに応じる。壁に映る二つの影はぴたりと重なり動じない。
 やがで、ゆっくりと離れる。
「貴子、お前に誰にも渡しはしない」
「誰にも?」と悪戯っぽい眼で男を見る。
「誰にもさ」
「吉川さんって、欲張りね」
「男はみな独占欲が強いんだ。貴子のこの胸を他の男が触れたことを想像するだけで、気が狂いそうになる」
 乳房は男が触れる度に意思のある生き物のように揺れる。
「どうして、私を独り占めにしたいの。あんなに美しい奥さんがいるのに。もっとももうおばあちゃんだけど……」
「妻の話はしないでくれ」と唇を塞ぐ。

 昼になった。ようやく、浩は家に帰った。和子がソファで待っていた。和子は夫の顔を見るなり、「別れて」と頼んだ。
「馬鹿なことを言うな」と冷たく言う。
「よく考えたことです」
「何がよく考えたというのだ! いきなり別れろと!」と冷やかに妻を見る。
和子は何も答えない。
「ふん、俺に愛人いるからか?」
「それもあります」
「今に始まったことじゃないだろ」
「そうですね」と悲しげに答える。
 そうだ、今に始まったことではない。これまでにも何度か愛人を作ってきた。みなどういうわけか、乳房の大きい女だったが、今までは、いつかは自分のもとに帰ってくるという自信があった。しかし、今はそれが揺らいでいる。そういった現実の中で、乳房を切り取らなければならないという決断に迫られている。乳房を切るということは女を棄てること。そうなったとき、もはや夫は見向きもしないだろう。
「じゃあ、なぜだ?」
 和子の眼はどこか寂しげだ。
「わたしは今もあなたを愛しています、だから別れたいのです」
 その思いは複雑だった。簡単に説明出来そうもなかった。
「どうして?」と少し困惑した顔つきだ。妻が愛しているということが意外であったので
ある。
「これ以上、理由は聞かないでください」
和子は眼に涙が流れ出してきた。
「とにかく、頭を冷やしてよく考えろ」
 頭の冷やす? 冷やすのは自分ではない。寧ろ、あなたの方でしょう、とでも言いたげな目で和子は見た。どうしたんだ、という顔を浩はしている。
 考えれば考えるほど、無性に腹ただしくなってきた。突然、和子は帯を解き始めた。和子は家の中にいるときは、殆ど和服で過ごす。その方が落ち着くからだ。
「どうしたんだ?」と浩は戸惑いをみせた。
作品名:乳房 作家名:楡井英夫