れきちゃん
わからないわからない。なんでこんなところにいるのだろうか。
目は木を見ているのに心には何も映していない。食欲がない。パンを全部買い占めたいが、なにも食べなくてもいいようなきもちもする。
なんで自分はこんなことをしているのだろうか。彼に会いたい、それだけだ。
ついにここまで来てしまったけれども、彼はなんていうだろうか。拒絶して、今までに見たことのない顔を見せるかもしれない。
昨年の八月七日、彼は笑顔でこういった。
「れきちゃんて呼んでね。」
と。「歴史」と書いて「ふみと」と読ませる名前なんだと説明した。
「うちの親おかしくてね、普通そんな名前つけないよね。」
と微笑した。
彼の笑顔にはくるいがない。まるで精密機械だ。彼は私より一週間遅れてやってきたため、ここの生活のことを大まかに説明した。お風呂は自由に入れるけれども、職員室の前にボードがあって、時間が書いてあるから、入りたい時間のとこに名前書くんだよー、とか。本とか雑誌、新聞は置いてあるのは自由に読んでいいんだけど、朝日新聞だけは毎朝、大矢さんていうおじいさんが読むからとっといてあげてね、とか。いちいち語尾を間延びした調子でおどけたように話す私の言葉を、彼はうんうんと頷いて一言も聞き漏らしていないように聞いた。
それからちょっと待っててね、と言い残し部屋に戻って一枚のプリクラをもってきた。「
これ、彼女なんだ」と言って見せたそれには自分と同じくらいの歳の女の子とれきちゃんが映っていた。あきらかに不似合いな二人だった。プリクラから目を離し、目の前の「れきちゃん」に目をむけてさっと必要な情報を頭にいれていく。れきちゃんの年齢はどうみても三〇を越えている。そうして、悪いのだが、顔はかっこよくないし身長も一六〇くらいしかない。男性にしては小柄なほうだ。体系はがっしりしていて、肩幅も広い。そしてかなりの色白。身長の低さとがたいのよさがアンバランスで、そうしてやさしすぎる口調と色白なのが女性っぽい。女性的な男性、とでもいえばいいのだろうか。そんなことをめぐらしている途中、彼にプリクラに映る女性は女子大生だという説明が加えられた。なぜ彼が女子大生のかわいい女の子と付き合えるのだろうか。私ぐらいの年齢にありがちな年上の男性にあこがれるということなのか、だから彼には容姿以外になにか魅力があるんだろうと結論づけた。それから「彼女かわいいねー。」といっておいた。同室のナナさんとよく一緒にいるユミさんが近寄ってきて「ねえねえ。まなみちゃん、なにそれ?」というのでれきちゃんの目を見て、見せてもいいのか確認すると頷いた。「香野さんの彼女なんだって。」といいながら見せるとユミさんは「えー、彼女いるんだぁ。かわいいね。」と言ってにこっとした。ユミさんを見ていると彼女はどうしてこんなとこにいるのかわからないなと思う。普通の二八歳の女性ではないか。髪はゆるくウェーブしていて栗色。根元のところが黒くなってきている。表情はいつも穏やかで話すとき語尾を延ばすくせがあるが、それが彼女の雰囲気と相まってかわいらしい。顔は美形ではないが目が大きくていつも引き結んだ唇がかわいい。
「れきちゃん一人部屋なんだね。いいなあ。わたし四人部屋なんだけど、落ち着かないからいつもすぐここにでてきちゃうんだ。」
「そうなんだ。ここの人たちもそうなのかな」とテレビの前にいるおじさんたちを指していう。
「うーん、わかんない。ただテレビが見たくてここにいる人もいると思うけど、やることないからじゃない。」と私はいう。
「ああ、なるほどね。いろいろありがとう、僕はまだ来たばっかりだから、また世話になるかもしれないね。」とまた微笑する。私は差し出された手を見て、握手するなんて
やっぱりこの人もへんだなと感じながら、思い出していた。一週間前、ナナさんに挨拶をした後、握手を求めた自分を。