一本の傘
ここ数日晴れの日が続いていて、そろそろ降るかな、と思っていた。授業が全部終わって、教科書を片づけながら窓のほうを見ると、ぽつりと一粒がガラスを伝ったところだった。
「雨か……」
思わずため息交じりに呟くと、隣の席のやつに話しかけられる。
「なんだよ、お前傘持ってきてないの」
「いや、持ってきた」
「じゃあいいじゃないか。そんな深刻そうな顔して」
「雨は嫌いなんだ」
でも、俺は雨が降るのを待っていた。こんど降ったら、と決めていた。でも先延ばしにしたいこの矛盾。俺の気持ちを知ってるみたいに晴れを続けてきてくれた空のカミサマも、そろそろもどかしさに限界が来たようだ。俺ももう限界だけれど。
教室を出ると、廊下にあいつがいた。いつも俺を待ってる。にこにこして微笑んで待ってる。俺のカノジョ。
「……雨だよ。傘持ってきた?」
「持ってきてない」申し訳なさそうに言う。
「ごめんね」
「いや、いいよ。いつものことだろ」
廊下を歩き出す。彼女は毎朝の天気予報を見ていないのか、いつも傘を持っていない。いや、付き合い始めの頃は持ってたな、白い傘。天気予報を見ないわけではなくて、壊れたんだったかな、なくしたんだったかな。何か言っていたような気もするが、よく覚えていない。たぶん傘なんていらないと思っているだろう。雨が降るといつも俺が自分の傘を差し、彼女をその中に入れて相合傘して帰る。
だから雨の日は嫌いだった。……その中でも、今日は最も楽しくない雨の日になる。
靴を履き替えて外に出ると、雨が本格的に降り出していた。
まだそんな時間じゃないはずなのに、昇降口から眺める景色は暗い。どんよりと見たこともないほど分厚い雲が空を覆っている。雨は雨でも、こんな天気は初めてだった。
「入れてくれる?」
彼女がいつもどおりに言った。俺は「いや」といつもと違う風に言ったつもりだったけれど、急に強くなった雨の音にかき消されて彼女には聞こえないようだった。
彼女が小さく首を傾げる。俺は仕方なく声の音量を上げる。
「今日は、だめ」
「え?」
「今日はっていうか、今日からはだめ。」
固まってしまった彼女の眼を見て、「別れよ」と言った。
「……なんで?」
「言わなきゃわかんないのか」
キミに告白されて、この数カ月、ボクがどんな気持ちでキミと過ごしてきたか、言わなきゃわかりませんか?
もちろん、俺に訊くまでもなくわかっていただろう。沈黙の中で、彼女の悔しそうな表情がそう答えていた。
「ごめん」とだけ言うと、傘を開き、自分の上に構えた。俺は彼女に背を向け、ひとりで雨の中に歩きだした。彼女はもっと俺を引き留めようとするだろうと思っていたけれど、そんなこともなかった。
数十メートル歩いて、校門のところまできて振り返った。昇降口のひさしのところに立ち尽くしている彼女の姿が見えた。雨に遮られて表情は見えなかったけれど、でも、泣いてる、と思った瞬間に元のほうへ歩き出していた。近づいてみると、やっぱり彼女は泣いていた。俺が戻ってきたのに気づいてもこっちを見ないようにしながら、歯を食いしばって。
傘を閉じると、無言で差し出した。彼女が受け取ろうとしなかったので、足元に置いてきた。彼女がひとりで差すには似合わないコンビニの安いビニール傘だ。
「じゃあな」
それだけ言って、その場を去った。雨に叩かれながら帰った。
ずぶ濡れで家の前までたどり着いて、灰色の空を見上げた。動けない。雨粒の一つ一つがすごく重くて、痛くて。道は静かだった。激しい雨の音と彼女への思いだけが体の中に響いている。
どうしてだろうな。別に好きじゃなかったはずなのに。
動かない。雨、もっと強く降ればいい。もっと顔を汚してくれればいい。傘なんていらないのは、俺のほうだったのだ。