春の雪
春の雪
人はいつでも生まれ変わることができる筈だ。
身体の細胞は常に生まれ変わっていて、一年前の細胞は文字通り過去のものなのだと、タクシー乗務員の悠木正人は今朝、カーラジオで聞いて感心した。
今日から生まれ変わったつもりで、駅の長い列に並ぶのをやめ、流し営業専門に戻ってみると、意外に路上で手を挙げてくれる人が多いことに驚いた。
不景気だから駅に頼るしかないという声に、屈していたことを、彼は反省した。
午後七時。ハンバーガーショップから出ると、駐車場に若くはない夫婦らしき男女が居て、チラシを手渡された。悠木は二人共見覚えがあるような気がした。二人は切羽詰った表情である。
「犬の具合が急に悪くなりましてね、そこに書いてある病院へ連れて行きたいんです」
「動物の救急病院なんです。お願いします!」
補足した妻の方も哀願する口調で訴えた。
そこまでの距離は十キロ近くある。悠木は笑顔になりそうなのをこらえた。
彼は急いで車に乗り、ドアを開けた。
少し行ってすぐ近くのマンションから、老夫婦はタオルに包んだポメラニアンを抱いて車に戻った。
「十五歳です。家を出た息子の代わりに一緒に暮らしてきました」
そう云ったのは夫である。べっ甲の眼鏡がやさしい顔立ちに似合っている。
「ちょうどこの人が退職したときからです」
「夕方から動かなくなってしまいました。呼吸はちゃんとしてるけど、今日中に診て貰いたいので……」
「今朝、無理に散歩させたのがいけなかったのね。凄く冷え込んでいたし、あたしも足が痛かったのに……」
「足が痛いのは毎日じゃないか」
夫は幾分苛立っているのだろうか。
雪が降り始めた。
「道が違うみたいな気がします」
「近道です。これで行くと信号が少ないんですよ」
そう云いながら、悠木は頭の中で計算していた。今日の売り上げが二日前の倍に近くなりそうなので、不思議な気持ちだ。
渋滞は川を越えるときだけだった。二十分程で動物病院の看板が見えた。
「駐車場で、運転手さんが出て来るのを十分近く待ってました。五年前、保険証を届けて頂いたでしょう。憶えてませんか」
初老の男のそのことばで、悠木はすぐに思い出した。月替わりの日だったのですぐ必要だと思い、車の中で乗客が落としたそれを、勤務時間中に届けたのだった。
「夜中に電話で起こして、申し訳ないことをしました」
「あのときはとてもありがたいと思いました。だからあの店におられるのを見て、すぐに思い出しました」
「そうですか。ありがとうございます」
「主人がまだボケてないことも、確かめられたわ」
「まだまだ大丈夫ですよ。ワンちゃんもね」
路肩にはうっすらと雪が積もり始めていたが、来週から本格的な春になることを、ラジオが伝えていた。
了