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駆け落ち

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『駆け落ち』

北陸の小さな寒村で生まれ育った。子供の頃は冬が長く、雪が何日も降り続いた。
その冬は、いつになく雪がたくさん降った。降り続く雪は何もかも消していった。美しいものも醜いものも白く塗り潰していった。悲しみも喜びも、みな雪の中に閉ざされていった。雪に閉ざされる村では、何もできない。だから、村人は親しい隣人を訪ねたりして、お茶を飲みながら、あれこれと話しながら過ごした。村の入り口にある家の老婆がよく我が家に訪ねてきた。老婆は皺だらけの顔をしていて、腰を屈めながら歩く。みにくい魔法使いにそっくりだった。不気味な感じがして、好きではなかった。

 十二月の中ごろであろう、朝から雪が降っていた。母と一緒に炬燵に入っていた。いつの間にか、心地よい眠りに落ちた。ふと、目覚めると、老婆が炬燵に入っていた。
 老婆はいつも嫁の悪口を言っていた。その日もそうだった。母はそんな老婆の愚痴ともつかない話を時折うなずきながら聞いた。
「ありゃ、とんでもない嫁だ。とうとう、家を出てしまったわ」と何ともいえない笑みを浮かべて言った。
 母は何かに熱中すると、無意識のうちに少し口が開く。そのときも口を少し開いていた。そして、じっと老婆を見つめながら話を聞いている。
 老婆は少し間を置いた。
「とんでもない嫁じゃ。若い土木作業員と一緒にどこかに行ってしまったわ。駆け落ちしたんじゃ。子供の面倒もろくに見なかった。いなくなってせいせいした」と吐き捨てるように言った後、卑屈な笑いを浮かべた。
 実を言うと、自分は老婆が罵倒する、その嫁が好きだった。何度も話したことがあった。最初に話したのは、先妻の子供(自分よりも二つ上だった)と遊んだときである。優しい声で話しかけられ、お菓子をもらった。そのとき、良い匂いがした。直観的に良い人だと思った。良い匂いのする女の人は村にいなかった。皆、土の匂いがしていた。確か後妻として入ったが、歳の離れた旦那とうまくいかず、また先妻の子もあまりなつかなかった。そのうえ、姑である老婆に奴隷のようにこき使われて、かわいそうだと噂する者もいた。むろん、老婆はそんな評判があることを知らなかったようだ。
老婆の話を聞いているうちに、彼女が駆け落ちしたのは、三日前ではないかと思った。
――その日も、朝から雪が降っていた。駅舎の中で待っていると、大きなカバンを持った彼女が駅に入ろうとしているのを見つけた。雪の降る中で、赤いマフラーをしていて、その赤い色が実に印象的だった。そのとき、赤い色が好きだということを思い出した。駅に入ると、肩や頭についていた雪を払った。一足先に駅に入っていた僕と視線があうと、微笑んだ。
いつもなら、必ず話しかけてくるのに、その日は微笑むだけ。
「どこへ行くの?」と聞くと、
「遠くに行く」と言葉少なげに答えた。
 彼女の目を見た。目は笑っていなかった。何か遠くをみるような目をしていた。子供心にもそれ以上聞いてはいけないと思った。
 汽笛が聞こえた。列車が来たのである。
彼女は「ちゃんと勉強するのよ」と言って駅舎を出た。乗り込んだ列車はゆっくりと出発し、雪の中に消えた。――

 老婆の話を聞きながら、あの日、彼女は家族を捨てて出ていったと確信した。ただ子供心にも、こんな口の悪い老婆と、一緒に暮らしていたら、息が詰まり、逃げ出したくなるのも当然だとも思った。
 炬燵から出て、廊下から庭を見た。既に辺りは少し暗くなっていた。仄かな明かりの中で、ありとあらゆるものが、雪のせいで細密画のように明らかになっていた。その中で、鮮やかな赤い椿の花を見つけた。赤い色が彼女のマフラーの色にそっくりだと思った。
作品名:駆け落ち 作家名:楡井英夫