花火と夏のおもいで
火薬の燃える花火特有のあの匂いが蒼一は嫌いだった。
それなのに、今目の前にいる男はひょろりと細長い体を折り曲げて地面にかがみ込み、スニーカーのかかとを潰してつったったままの蒼一の険しい表情をまったく無視して嬉しそうにろうそくに火を付けようとしていた。そんな男の頭のてっぺんを一瞥して、勝手にしろよ、と蒼一は内心毒づいた。
「よし、火がついた。蒼一、どれからやる?」
「啓介、おまえ俺の話聞いてなかっただろ、花火は嫌いだって言ってんじゃん」
ため息混じりに抗議してみたが、花火セットから一本を取りだした啓介は不思議そうに首を傾げる。三つ年上の男にそんな仕草をされたところでかわいいとも思えない。蒼一の苛立ちは逆に増すばかりだ。
「なんで? 夏といえば花火だろ」
「なんで夏といえば花火なんだよ。勝手に決めんな」
「日本の夏の風物詩だよ、絶対に。大丈夫だから」
「なにが大丈夫なんだよ……」
啓介のペースにずるずると巻き込まれながら、蒼一は頭を掻いた。
どうしようもないのは啓介だけじゃない、自分もだ。
ちょっといいから公園においで、と優しい声で呼び出され、なにをするとかどうするとかそういうことは聞かないままに応じてしまった。
蒼一と啓介は、バイト先のコンビニの従業員だった。高一の時から働き始めて三年目になる蒼一は、今年入ったばかりの啓介より仕事では先輩にあたる。仕事を教えたりしているうちに多少きつい言い方になっても啓介は受け入れてくれた。横井さん、啓介さん、啓介。呼び名を少しずつ変えてみたけど動じない。それどころか同じように篠塚くん、蒼一くん、蒼一、と呼ばれ方が変化した。ちょっと変わった大学生だな、と思いながら数ヶ月が過ぎ、夏がきた。日用品と一緒に店長が仕入れたらしい花火の数々をじっと見ていたからだろう、啓介は帰り際に言ったのだ。これから花火をしよう、と。後ろから声を掛けられたから、啓介にはきっと蒼一の険しい表情までは見えていなかったようだ。
「俺さあ、その花火の煙の匂いがヤなんだよ。火薬くさくて」
「そう? これなんか絶対に綺麗だって。途中で色が変わるんだよ」
ほら、と差し出されたカラフルな棒をひったくって、知ってるよ! と蒼一はぶっきらぼうに吐き捨てる。
「じゃあ、これはどう? たぶん煙が出るのに比べたらそんなに匂わないと思う。それに、これが一番日本っぽいかんじがすると思うよ」
そう言って啓介が手にしたのは、細長いこよりだった。線香花火なら、たしかに派手な煙は出ない。啓介はどうしても蒼一に花火をさせたいらしかった。しぶしぶ、蒼一はそのうちの一本を受け取った。
「これだけだからな。あとは全部啓介が持って帰って友達と花火しなよ。きっと俺とやるより楽しいと思うから」
三分の一ほど溶けてしまったろうそくの火に線香花火の先を近づける。ジジ、という音がして、火が移る。
派手な光が吹き出したり、何色にもキラキラと色を変えたりするわけじゃなかったけれど、線香花火は静かに、繊細な火花を散らしてあたりをほのかに照らし出した。
硝煙のにおい、夏の記憶。
さよならだよ、と脳裏で声がする。
どうして、と答えた蒼一の右手には、使命を終えた花火の残骸がくすぶっていた。
――さよならをしたいんだ。
ふたたびそう告げた男の声は、ひどく痛々しくて、でも潤んでも震えてもいなかった。落ち着いていて、もうずっと前から決心はしていたのだろう、そういう声だった。
――それじゃ理由にならないよ。
そう言い返した自分の声が、みっともなく震えた。
秋が恋の終わりの季節だって誰が決めたの。夏に終わる恋だってあるのに。
いやだよ、いかないで。
ひとりにしないでよ。
言葉はどれも声にならずに胸に詰まって苦しい。喉の奥にひっかかったみたいで、蒼一に出来るのは嗚咽を漏らすだけだ。
そしてひとりぼっちになる。公園のすみで、取り残される。
あの夏の記憶に。
「みて、蒼一。綺麗だね」
啓介の声にはっと我に返った時には、もうその光は消え始めていた。
ちりちりと弾ける光が勢いをなくして柳のような光にかわる。やがてその光さえ小さく小さくなっていき、そして。
ぽたり、と焼けた球体が地におちたとき、蒼一の頬にも一粒の滴が伝った。
夏が終わってしまう。そしてまた、ひとりぼっちになる。
はらはらと涙がこぼれ落ちるその顔を上げることができずにいると、蒼一、と柔らかく名前を呼ばれ、啓介が心配そうにこちらを覗う。涙でぼやけた視界に啓介がいる。そのことを認識したとたん、濡れた感触に唇を塞がれた。
「……っ」
それが啓介のものだと気づくのに、どのくらいかかっただろう。一秒か、二秒か、三秒か。でも不快じゃなかった。優しく吸い付くような啓介のキスは心地良くて、蒼一はゆっくりと目を閉じる。ぽろぽろと、目尻に溜まった涙が頬を転がる。
たぶん、啓介、と呼び始めた頃からずっとこれを待っていたのだ。蒼一、と呼ばれるようになってから、どこか期待していた。
ひとりぼっちの自分を迎えに来てくれる相手であるようにと。
「よくない思い出に縛られるくらいなら、夏をいい思い出に塗りかえればいいよ」
そっと唇を離した啓介が、蒼一の耳元に静かにそうささやきかけた。
涙に濡れた目で見上げると、視界の中で啓介が穏やかな笑みを浮かべていた。
「折角だから、これ全部やっちゃおう。俺と一緒に」
啓介が花火のパックを差し出した。蒼一は手の甲で涙を拭うと一つ頷いて、その中から一番派手に咲く花火の一本を手に取った。
「夏の風物詩、だもんな」
さよなら、遠い夏のおもいで。