えらばれたひと
その声を聞いた瞬間。
希薄で胡乱げな――昆虫とでも言おうか感情などと言う高尚な機能を何処かに
置き忘れてきたかのような表情を浮かべていた男の相貌には圧倒的な歓喜が満ちた。
それは爆発的な衝動、しかしながら一切の獣性から切り離された男の表情には法悦とでも言うべき異彩の感情に溢れていた。
『お前は選ばれた』
何と神々しい響きであろうか。
発声の合間にかすかに響く呼気すらが心の琴線をかき乱していくかのよう。
ひとたび託宣として男の耳朶を震わせたならば、今まで一粒の涙すら流したことの無い
乾いた瞳に大粒の雫を満ち足していく偉大なる作用を齎すのだ。
既に幾筋もの涙が男の頬を伝っている。
『讃えよ! 満天下に我が全能たるを示さん!
されば、汝天を仰ぎて我を讃えるべし!』
男は首を天へと向ける。
涙でぼやけた乳白色の視界には黒いミミズが這った様な物が踊っている。
――文字だ。
そう判断するのに時間は掛からなかった。
かすんだ視界を両手でごしごしと拭いさる。
しかし、涙は決して尽きることなく溢れ落ちる。
どれぐらいの時が流れただろうか、男にとっては気が遠くなるほどの時間。
あるいは我々にとっては須臾のひと時。
ついにその機能を取り戻した視界で男はそのメッセージを読み取った。
『馬鹿が見る』
座した便器の上で、男は酷く落胆した。