問いと答え
私は借りていた専門書を抱えなおし、研究室へ急いだ。自然と顔がほころぶのがわかる。キュッ、キュッ、とスニーカーを鳴らして、廊下の真ん中を早足で歩いた。
【第5研究室】とゴシック体で書かれた扉の前で深呼吸。白衣に皺が付いていないか確認する。よし、大丈夫。(ところどころ変色してるけど)
静かにドアを開けると、まずコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。部屋を見渡すと、腕を組んでカップをゆらす難しい顔をした先生が立っていた。(先生の表情の変化というのは微々たるもので、私も最近ようやくわかるようになったのだ)彼は私に気付くとほんの少しだけ微笑んで、湯気のたつビーカーから薄いピンク色の専用カップにコーヒーを入れてくれた。砂糖は二つ、ミルクはいっぱい。子ども舌の私は少し苦手だけど、先生の煎れるコーヒーだけはおいしいと思う。
忘れないうちに数冊の分厚い本を返した。それとは別に、文庫本の小説はまだ読み切っていないことを伝えると、先生は「かまわない」と短く言った。本の内容は推理モノで、このトリックは物理的にありえない、と怒っていた先生に無理矢理借りたものだ。フィクションなんだからトリックなんて現実に出来る・出来ないはさほど重要ではないですよ、などと話した記憶があるけど、そのとき堅物の彼がなんと答えたかは覚えていない。
「ところで、何の研究をしてるんですか?」
試験管を混ぜたり振ったりしながら液体の色を変えているらしい先生は、顔をしかめて言いよどんだ。(あぁ、難しい内容だったら嫌だな、と今更気付く。先生の声や話は好きだけど、難解なものだった場合は聞き手に理解させようとしてその分異様に長くなるのだ)
バイトまであと三時間あることを確かめて、どうかそれまでに終わればいいと思っていた私は、次の先生の言葉に心底驚いた。
「……相手が自分を好んでいるかどうかがわかる薬品を作っている」
どんな顔をしていたのだろう、私を横目で見ながらも彼は、「人に頼まれて」だの「こんなくだらない」だの「一応完成したはずだが」だのと焦りながらぶつぶつと呟いた。先生が私に嘘をついたことはないから、「人に頼まれた」のも「好きだの嫌いだのくだらない」と思っていることも「その薬品が完成した」のも本当のことなんだろう。
私は手首にかけていたゴムで髪を一つに束ねた。
「試しに実験しましょう! 実験体は私と先生で」
すると彼は一瞬明らかに嫌な顔をしたあと、この薬について手短に説明してくれた。
要は簡単だ。試験管に入った透明の液体を二本に分ける。一人が好きな人物を思い浮かべて持つと白くなり、同様にもう一人が持つと赤くなる。そしてその二本を混ぜ合わせ、キレイなピンク色になったら両思いということだ。(実用的にはあまり簡単ではないな、と思う)
さて、私の好きな人は何を隠そう(これっぽっちも隠していないが)先生である。まだ大学一年生だというのにゼミに入り浸る私はなかなか積極的な女の子なはずだ。女の子、というにはいささか化粧っ気なんかが足りないかもしれないが、根っからの理系だからしょうがない。服装は毎日白衣。これではお洒落する気もなくなる。
先生は確か三〇代後半かつ准教授。順調にエリートしている。見た目はもちろん格好いいし、スタイルや服のセンス(白衣だけど)も悪くない。問題は恋愛に無頓着そうな(というか毛嫌いしているような)性格と、講義の話の長さだった。クセのある人、と初めは追いかけていた先輩たちも一年すれば離れていったようだ。同期では先生のオリエンテーションを受けてから、話題にのぼることは格段に減った。
よって、私の試験管は白色。
先生はというと、まず色が変わるかどうかが怪しい。仮に赤色だったとして、私と合わせてピンク色になるとも限らないのだ。お互い違う人を想っていたら、元の透明に戻ってしまう。
「せんせー、なぜ隠すんですか」
「……危険だからだ。何が起こるかわからん」
苦し紛れに言う先生は、自分の試験管を見せようとはしなかった。白くなった液体を黙って受け取り、背を向けて混ぜ合わせる。別に覗き込んでもよかったのだが、そんなことで機嫌を損ねても困る。
一拍後、パリン、という音がして床には無惨に割れた試験管があった。液体はすぐに蒸発したようだ。
「先生っ、手とか大丈夫ですかっ!」
「あ、あぁ……だが、実験は失敗だ」
結局、試験管が何色になったのかはわからなかったけど、顔を耳まで赤くした珍しい先生が見れたので、私はそれで満足だった。