ラムネとサンダル
古くさい畳が広がる(といってもたったの八畳である)アパートの一室に、背後から扇風機の声援を一身に受け、神妙な面持ちで作業をする若者がいた。──俺だ。
首元に巻いた電器屋のタオルが暑苦しい。額からは玉のような汗がぽたりと流れ落ちた。まずい、この水滴は危険だ。ただちに作業を、いったん中断して、
「にぃーちゃーーん!」
ガチャ、という音と共に勢いよく開け放たれたドアの向こうには、黄色のワンピースに身を包み麦わら帽をかぶった少女が、それはもうにこやかな笑顔で立っていた。
俺の実家の近くには裏山がある。俺の家から見ても決してそこは「裏」山ではなかったが、友達がみんなそう呼んでいたから当時はあまり気にしなかった。そこは夏になるとカブトムシやらヘビやらがよく出て、小学生の絶好の遊び場だった。ガキの頃、夏休みは一日中裏山に篭もっていた気がする。中でもセミがうるさくて、緑の葉を広げる木々を見上げると、必ず幹に一・二匹はいた。それを虫取り網で捕まえては友達と数を競い合っていたものだ。
何もかもが懐かしいといえば、確かにそうかもしれない。まぁ、今の俺はそれどころじゃないからな。
一夏の思い出、セミ取り。そいつらの声は俺に昔を思い出させた。
しかし、しかしだ。ここは都会とは言わんがあくまで日本の首都(郊外)。だというのに、網戸や部屋の隙間という隙間から、やかましい鳴き声が聞こえてくる。数日前から、もはやこれは騒音と化していた。うるささが田舎の比じゃない。今年の夏はセミが異常発生している、とテレビで学者が語っていた。今年、と言うべきか、数年前、と言うべきか。
「ミィーンミィーン」という夏の風物詩も、これだけ集まれば「ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ」という不気味な笑い声に変わるのだと、一九年生きて初めて知った。築三〇年のアパートの向かい側には、人気はないが無駄に木が茂っている神社がある。原因はそこか、と一昨日ようやく気付いた俺だったが、夜も止みそうにないセミの声は、誰にも抑えることは出来ないようだった。
「閑かさや 岩にしみいる 蝉の声、か」
しかしここには風流な岩などないのだった。
「シュンちゃん!」
「はいはい」
「ハイは一回っ!」
「……ハイ」
部屋の中央の折りたたみ机のところにちょこんと正座し、少女は厚かましくも冷たい飲み物を要求した。今日は暑いからね、のども渇くよね、でも俺んちには麦茶なんてものはありませんよ、と言いながらコップ一杯の水道水を差し出すと、恨みがましそうな目付きでじとっと睨まれる。苦学生の一人暮らしが優雅と思ったら大間違いじゃい。
「お兄ちゃんは、ろうにんせい、でしょ?」
まぁ、正確にはそうなのだが。
俺は現在一浪中の十九歳だった。上京しようと思い立ち、目指していたのは偏差値も高いとも言えない大学だったので、早い目にこの東京郊外の家を借りたのだった。しかし、試験には落ちた。親戚中の笑い者になった(なにしろド田舎だからな)居心地の悪い俺は、親の「あんたもうあっちで浪人やってな」というひどく面倒臭さが滲み出た言葉を受け、今に至る、というわけだ。
「あァーなにか冷たくて甘いモノが食べたいなー」
目の前で足を伸ばして注文をつけ始めたのは俺の従姉妹で、今年で小三か小四くらいのおてんば娘だ。そういえば、小学生はちょうど今夏休みなのだろうか。
尋ねてみると、間延びした声でだらだらと返事が返ってきた。要約すると、家族で東京に出ていて両親は知り合いの所に寄ってるからシュンちゃんとこで遊んでもらいなさい、ということらしい。参ったぜまったく。
「だからわかってる? 俺はこれでも一応浪人生なワケ。子どもの相手なんかしてらんねーの」
「その机で勉強してるとは思えないなー」
目線の先は問題集と参考書の積み上がった勉強机、ではなく、未完成のペーパークラフトが所在無さげに載っている机だった。どう言い訳しても勉強していないのは明らかであるが、小学生にだけは指摘されたくないことだった。
「おま、かーちゃんみたいなこと言うなよ」
「じゃあどっか連れてって」
その「じゃあ」っていうのはどっから出てくんだよ、といつも思うが、どうせここで断ってもあとで告げ口されるだけだというのは経験上知っている。最悪、今晩にでも親から電話がかかってくるだろう。それだけは避けたかった。
(それにしても、暑いな……)
忙しなく鳴くうるさいセミ。
止めどなく流れる汗。
おめかしして着てきたのであろう、黄色のワンピース。
小さな二つくくりのヘアゴムには、可愛らしい向日葵が咲いている。
にょきっと生える健康そうな手足は、小麦色に焼けてやけに眩しかった。
「なんかいかにも夏みたいな奴だな」
「んー?」
その辺の問題集をうちわ代わりに扇ぐこの少女を見ると、少しだけセミの音が遠くに聞こえるような気がした。
「あーなんかラムネ飲みたい」
「ラムネ!」
ばっと立ち上がり、ラムネ、ラムネ、と満面の笑みで言うもんだから、ラムネなんか普通どこで売ってんだよ、というツッコミもどうでもよくなる。
「じゃあどっか行くか」
「うんっ!」
行儀良く揃えられていた白いサンダルを履いた、どことなくお嬢様なおてんば娘を見て、ふと自分の服装が今まで半パンジャージとTシャツ一枚だったことに気付いた。
「着替えるからちょっと外で待ってて」
「やーん、えっち」
「お前だよ、おまえ」
この暑さじゃ、ペーパークラフトは完成しそうにない。