鳥と籠
先生はずっと同じように、私を静かに見続けた。その目は確実に、精密に、私を見ているのだが、本当に私のことを見ているかと問われたとき、決してそんなことはないのだ、と私は痛々しい笑みで返すことができる。先生はいつだって私を捉えて放さないけど、捕らわれているのは私だけだ。
「今日はまだ外に出てないから、分からない」
三分くらい経ったころだろうか、遅い返答を聞いたのは。それでも私は涙が出そうなくらい嬉しかった。舞い上がって少し動いてしまったのを反省して、私は先生が最も望む体勢に戻る。
「先生、外はもう秋ですよ。並木道は色づき始めて、空気も少し変わって……。今年は例年より紅葉が二週間くらい早いって言ってました。あ、テレビなんですけどね。先生はテレビとか見ないですよね」
私は先生の目を追って話した。視線が絡むことはない。
分厚い汚れた眼鏡(たぶん老眼鏡だと思う)の奥の瞳は、少し小さくて、優しくて、でも鋭かった。その鋭い視線が私を射抜くのを感じたとき、私はぞくぞくするのだ。友だちからは、ちょっと歪んでる、って言われたけど。
「今日は授業午前中だけだったんです。その後は友だちと公園に行って……公園っていろんな人がいるんですね、私、久しぶりに行ったから。あ、絵を描いてる人もいました。毎日外に出かけてるんですって。すごく上手な人でした。先生の絵の方が好きですけど。それと、クレープも食べました。先生はクレープってご存じですか?甘くて美味しいお菓子なんですけど……」
今日は大丈夫だろうか、と思って待ってみたが、さっきのは気まぐれでやはり返事はない。いつものことだ。
先生が私に興味を持ったのは一度だけ。それからは無関心ではないにしろ、どこまでも無反応だった。無断で髪を切ったときも、化粧をしてきたときも、いつもより露出した服だったときも、先日思い切って髪を茶色にしたときも、先生は眼鏡越しに一瞥しただけで、黙って定位置についたのだった。
私はよく先生を観察する。白髪交じりのもじゃもじゃでごわごわの髪、曇った黒縁、無精ひげ、汚れたよれよれの服に、絵の具の付いた黒っぽい手。先生も私をちゃんと観察しているだろうか。特別な感情はなくとも、私を正確に把握してくれているだろうか。
私は先生に外に出ることを勧めるが、それは変化が欲しいからだ。出無精ではないが、私が先生を外で見たのは、公園で初めて会ったときだけだった。二人で外に出れば、何かが変わるかもしれない。そう淡い期待を寄せつつも、本当はこの部屋から出て欲しくないとも思う。外に出れば、私を見てくれなくなるかもしれない。もっと素敵な人を見つけるかもしれない。そんなのは絶対に嫌だ。
「先生、私は先生のこと」
「動くな」
目があった。初めて会ったときの鋭い目。そんな風に見られると、私は何も出来なくなる。先生は一言注意しただけで、また同じように作業を再開した。
「私、今日告白されたんです、クラスの子に。返事はまだしてないんですけど、格好いい人なんです、人気者で、優しくて……」
私はこんな構われ方しか知らないのだ。
「先生、どうすればいいと思いますか」
「今日は終わる」
先生は椅子から立ち上がって、手を洗いに行った。私はソファーから身を起こし、いつもは見せてもらえない絵をこっそり見る。そのキャンパスの中には私がいる。先生が見た私──。
「もう仕上げたいから、明日も来てくれ」
片付けをしながら先生は小さく言った。不器用な人だ。
「先生、その絵が終わったら、一緒に公園に行きましょう。モデル代です」
そう言って、私は鳥籠を後にした。