Reborn
4
「こんにちはあ。」
友人が玄関で大きな声を上げた。
「おおい、雄太、友達だぞ。」
父もまた大きな声を上げた。友人は玄関のサッシの外側にいて、父は内側にいたから、友人の声は幾分くぐもって、父の声はそれに対して鮮明に聞こえた。
「はあいはい。」
私も返事に独特のイントネーションをつけて大声を上げた。私の部屋から玄関に行くまでには部屋を三つ過ぎなければならない。みんな大声ばかりだ。こういう感情のこもっていない大声は好きだ。呼びかけ応えるという力の作用だけがあり、情緒の色がない。家の空気がさわやかに張りつめた。
私がCONVERSEの青いスニーカーに何とか足を詰め込むと、それを見た友人は車の方へ向かい、私が車のドアを開けるときは既に反対側のドアを開けていた。
「行きたいとこがあるんだけど。ちょっと遠いけどいい?」
「え、どの辺?」
「園山インターの辺り。ここから30分ぐらい。」
「行きたいならかまわないよ。」
私はドライブは好きではなかった。だが、その好きではないというのは、閉ざされて身動きができない空間で、揺れたり遠心力を感じたり不愉快な思いをすることであり、ドライブに必然的に伴う会話は好きだった。ドライブの不愉快さと会話の楽しさを天秤にかけ、会話の楽しさの方に秤が傾いた。
車が発進した。そう言えばかつて友人は軽トラックでうちに遊びに来ていた。それが乗用車に替わった時、乗り心地の違いに驚いたものだった。乗用車の振動の制御は、どんどん人間を仮想的な世界へと追いやる。歩いているなら分かるはずの地面のでこぼこをなかったことにしてしまう。こうやって人間は大地や自然から離れていくのだ。私は軽トラックに乗っていた頃の、今思うと貴重な振動をもはや思い出せない。乗用車に替わったときの感動の質感も覚えていない。ただ感動があったという事実だけを覚えている。
桜並木の脇を通り抜け、ブロック塀の脇を通り抜け、公道に出るところで、いつもなら左へ曲がるところを右へ曲がった。見慣れない風景と出会うであろう予感が、異物のように私の軽い不安と好奇心を呼んだ。
「仕事の方はどうだい?」
友人は結局農業高校の助手に採用された。自殺はせずにすんだわけだ。
「やりがいがあるね。なんか肉体労働することで自分の罪が浄化されていく気がするよ。」
宗教に関心のない友人から「罪の浄化」などという言葉が発されたことを、私ははじめ受け入れられず、友人の言葉はしばし宙に浮いた。だが、それが着地したとき着地の仕方はとても素直で柔らかく、私は友人の才気がうれしかった。友人の言葉の鈍さは友人があまりにも地に接しすぎていることからくる。だが、大地と接するときに反動を受ける時がままあり、それが時折友人の言葉に鋭さを添える。
「何の罪?」
「働かなかったことの罪だね。」
「じゃあ懲役みたいなもんだね。罪の償いなんだから。」
「強制労働ではないよ。」
友人は低く笑った。義務のように弱い笑いだった。
風景の大洪水だ、と私は思った。いくらでも押し寄せてきてとどまることを知らず、どんどん私の認識の限界という堤を越えていく風景の洪水だ。道路から一段と低まったところにある棚仕立ての梨畑や、余白を十分残した贅沢な土地の使い方をしている野菜畑、農家が農協の選果場に出すときに利用するコンテナを、農協が農家へと返却するために作られた簡易な屋根仕立て、軽トラックの荷台だけを再利用して錆び果てているゴミ捨て場、一つ一つの面が水平に保たれたため土地の勾配によって面の変わり目で段をなしている水田群、そういうものが私の視界の側面寄りを通り過ぎていった。
「最近仕事してて思うんだけどさあ。」
友人は運転をしているとき会話の積極性が低まる。車の軌道が道路に沿うように注意したり、ギアチェンジやアクセルやブレーキのタイミングを考えたり、曲がり角でハンドルの切り具合に気をつけたり、歩行者などに気遣ったり、目的地までの経路を考えたりしている。だから、車内では、友人から会話を切り出すことは少なくなり、私への相槌や私の発言へのコメントも軽くなる。にもかかわらず友人から話を切り出したのだから、話したい欲求は結構強かったに違いない。
「何?」
「同じ言葉でも意味してることが違うことがよくある。」
「どういうこと?」
「いや、俺、先生方に付いて手伝ってるじゃん。それで俺が言ってることが先生にうまく伝わらなかったり、先生の言ってることを俺が誤解しちゃったり。言葉にならないことがたくさんあって、それを言葉だけで伝えようとしてて、なんか矛盾だなあ。」
「ああ、なるほど。」
「そうすると他人ってのがめんどくさくなっちゃう。おっと。」
広い道へと斜めに入っていく交差点で、対向車がろくにスピードを落とさずにこちらへ曲がってきたのだ。見ると70歳前後の老夫婦だった。
「他人って面倒なもんだよ。」
私は確信を込めてそう言った。
「そう?」
「うん。でもね、その面倒な他人ってものを面倒なままで受け入れることが必要なんだ。他人ってうざいもんなんだ。でもね、そのうざさをありのままに受け入れる。人間は子供のうちはたった一人の世界に住んでるんだ。確かに母親とか父親とか兄弟とか目に映るけど、それは自分の世界に入ってこない。でもあるとき転換が来る。自分の世界の中に他人が入ってくることを許すようになる転換だ。つまり、独裁国家から民主主義国家になるわけだ。」
「ははは。」
「子供のころ、世界観を語るのは自分にしか許されていない特権だ。物事に価値をつけるのも自分にしか許されていない特権だ。でも、あるとき、異なる世界観や価値観を同等の権利をもつものとして自分の世界の中に受け入れるようになる。自分と他人が同等の権利を持ち、世界を分かち合い、人間は、他人の強度をありのまま受け入れるようになる。その転換があるよ。」
「俺はまだその転換がないのかな。」
「ああ、いずれ来るよ、絶対。あ、米沢ラーメンだって。」
私は右手に見えてきた赤い広告用の旗をいくつもはためかせているラーメン屋に友人の注意を喚起した。「米沢ラーメン」のところだけ毛筆体で、「星の家」という店名はゴシック体だった。普通の民家を思わせる形をした、茶色で木でできた三角の屋根の店だった。外観である程度ラーメンの質はわかる。新しめのチェーン店は画一的で一定以上の質を保っている。個人経営で古びた感じの店は私たち現代人の味覚には合わないことが多い。だが昔ながらの味にラーメンの本質を見出すこともある。媚びない正統派のラーメンが、古びたラーメン屋に時折あって、古典の再発見、ルネサンスだなどと思ったりする。「味覚に訴える芸術」などという言葉を思いつき、その大仰さに冷笑した。
「ここは来たことあるけど、普通だよ。」
「そうか。じゃ来ることはないね。」