Reborn
3
私は大学院にいたころ、恋人がいた。彼女とははじめメル友だった。彼女は美大を出てOLをやっていたが、美術にはいまだ関心を持ち続けていた。
「絵でも彫刻でもそうなんだけど、美術ってなんか自分の中のもやもやしたものをちゃんとした形にしてくれる気がするの。きれいな風景画を見たりすると、自分の自然に対する欲望はこんな形をしてたんだなあって思う。」
私も法科のくせに高階秀爾などを読みふけっていたから、美術については人よりも関心があった。ブログに美術批評を書いたりもしていた。彼女は特にルネサンス美術が好きだった。
「宗教と人間って全く相容れないものだと思う。でも、人間は宗教を求めて、宗教も人間を求めている。そういう永遠にかなわない相思相愛が、ルネサンスにはあったと思う。人間も宗教も両方肯定しちゃったからそんな堂々巡りが始まっちゃって、その焦った感じや叶わない感じが好きなの。」
私たちは頃合いをはかって喫茶店で会った。その後会うのを繰り返し、仕事の話や勉強の話、美術や他の芸術の話や人生の話、家族の話や自分たちの過去についての話などをして、親しさを深めていった。
彼女はそれほど美人ではなく、少し特徴的な容姿をしていた。学校でも特に目立つこともなく、それほど人から気にかけられることもなく生きて来た感じだった。男と会うというのに化粧もせず、服装も黒や灰色や茶色を好んでいて、しかもあえてクールなデザインを拒んでいるかのようだった。靴もスニーカーだった。
だが、気づいたら私は彼女のことばかり考えていた。彼女が今どうしているか、ご飯を作っているのか、のんびりお茶を飲んでいるのか。仕事はうまくいっているのか。上司や同僚との関係はどうか。そして、彼女と話すことを頭の中でリハーサルしたりした。彼女は仮想の話相手で、私は話したいことができるとすぐに、自分の部屋にいながら、彼女に話す体で頭の中で話し始めるのだった。
「あのね、芸術には所詮限界があるんだ。だから、芸術を愛すると同時に芸術を憎まなければならない。憎しみによって芸術の限界が見え、本質が見えるんだ。愛すると同時に憎むことは大事だよ。」
こんなことを、一人、部屋の中で頭の中で彼女に話しかけるのだった。
それで、あるとき、私は別れ際にさりげなく言った。
「俺たち付き合わない?」
「うん、いいよ。」
自然な成り行きだ、と私は思った。その日マンションに帰ってから、大学院で一番仲の良かった友人に「彼女ができた!」とメールした。「おお、よかったねえ。八巻君はもてるからねえ。」と返事が来た。
「今までで一番大きな失恋だったんだ。」
私は友人の眼をことさらに見つめ、そう言った。親しい間柄だと目を合わせないことが多い。だが、これだけは相手の眼を見て言わなければと思った。
「そうか、大変だったね。」
別れの日から三日経っていたが、私の心はまだ雨上がりの木の葉のように湿っていた。濡れた木の葉の光沢が痛々しいように、私の挙動が示す雰囲気は、友人に、少しまぶしい悲しみの熱を感じさせたに違いない。
「初めは安心な人だと思ってた。地味だったからね。恋をしなくて済むと思った。でもね、恋を経由しないで愛が始まったんだ。実は最も危険な人だったんだ。安心だと思って深くつき合っちゃったから愛し始めちゃった。一見安心な人が一番危険なんだ。」
「愛情ってね、結局積み重ねで生まれると思うんだ。一つ一つの魅力は少なくてもたくさん積み重なれば愛情が生まれる。それに魅力は外見だけじゃないからね。同じ物事、たとえば同じ絵画だったら同じ絵画に二人で共に感動する。同じ冗談に二人で共に笑う。感動や楽しいことを分かち合うことの積み重ねで愛情は生まれるよ。だから、なんというか雄太は家族的にその人を愛したんじゃないかな。」
友人の言葉は特に感動を呼ばない代わりに私の認識を一層確かなものにした。友人はなぜか私の認識をなぞって私を納得させるのがうまい。言葉に鋭さはないが、軽くも重くもない生々しさが常にあった。
「泣いたよ。」
「うん。」
実は私はこのかつての恋人のことを友人にあまり話していなかった。友人は当時恋人がいなかったから、私は遠慮したのだ。話していなかったことを洗いざらい話してしまったから、ついでに何もかも話してしまえという気持ちになった。
「この際だから俺の過去の話でも聞く? 聞きたい?」
友人はためらった。私が自棄になっていることにひるんだのもあるだろうし、噂話の種になりがちであまり他人に話すべきでない過去の傷の話は、自分も聞くべきではないと思ったのだろう。私が過去の傷を話すことでその傷を拡大してしまうことを気遣ったのかもしれない。
「話したいんならどうぞ。」
「俺はねえ、大学に入ったころほんとに世間知らずだった。それでいろんなところで角を立てたんだ。サークルや隣人関係、友達関係。そのトラブルですごく傷ついたんだよ。人間のすごく醜い部分を見てしまった。強烈な悪意に何度もさらされた。俺は純粋だったから真剣に悩んだ。初めは自分が悪いと思ったんだけど、だんだんそうじゃないって気付いた。やらなければやられる。そういう社会なんだと気づいたんだ。俺は人間なんて誰ひとり信じられないと思った。純粋な悪になろうとしたんだ。優しさを捨てたんだ。地獄のような日々だった。人を信じられず人を傷つけ、そのことによって自分の評判が悪くなり、一層人を信じられなくなる。その悪循環だ。」
「そうか、雄太がそんな状態のとき俺は遊んでたんだもんなあ。同時に全く正反対のことが起きていたんだねえ。同じ時間を生きてるのに、その時間の色は人によって全く違う。」
「あるとき、ある暴力沙汰が大学に通報されて、俺は呼び出されたんだ。学生課のある棟の奥まった場所に小さな部屋があって、そこに呼び出されたんだ。電話をしてきた事務員が気に入らなくてね。理由を言わないんだ。それで俺はブチ切れた。「理由言えよこら! なめてんのかてめえ!」電話越しに声を荒げたんだ。そのくらい余裕がなかった。黙って出頭すればいいのにさ。次の日その事務員がちゃんと理由を言ってきた。「最初からそうすればいいんだよ」とか言ったりしたな。それでその空気も光も悪い狭い部屋で誰が来るのか待ってた。俺ははなからつっぱってるつもりでいた。あいつらが全部悪いんですよって感じで。そしたら、古びたドアを開けて入って来たのが俺の尊敬する教授だったんだ。」
私はそこで涙があふれて来た。言葉に詰まった。
「それが出会いだったんだね。」
私は、涙が言葉を上品に抑えつけるのに打ち勝ち、話を続けた。
「こいつら卑怯な真似しやがって、て思ったねえ。俺は涙が止まらなかった。とても勝てなかった。不良が一転して優等生に戻っちまいやがった。そのことが恥ずかしかった。それでその教授が俺の話を聞いてくれて、そのあと定期的に会ってくれて、俺は徐々に人間に対する信頼を回復していったんだ。あ、俺なんでこんなこと話してんだろう。」
「やっと整理がついたんじゃない。自分の中での。」
「そうかもね。」