彼女と私の消(と)ける世界
彼女がそう呟いてノートに「消(と)ける」と書いたのは、テレビの週間予報が傘で埋まった、ある日の放課後のことだった。
「何で”消”って字を”とける”って読むかっていうとね」
私のあきれ顔と溜め息を完全に無視して実に楽しそうに続ける彼女。いつものことだ。
この前は何だっただろうか、確か地底人の陰謀による大陸沈没か他世界衝突による世界消失のどちらかだったと思うけど。
彼女の脳内では世界は常に何らかの危機をむかえているようなのだ。
「このずーっと降ってる雨。これがすべての原因ってこと、この雨が世界をとかしちゃうってことなの。とけるっていっても中途半端なものじゃないわ。世界全部のモノも人も何もかもが、とけて水になっちゃうのよ。だから”溶ける”なんてあたりまえな字じゃ切迫感と危機感が伝わらないってことなのよ。だから”消”って字がこの天変地異にはよりふさわしいと思うのよね」
相変わらず話に脈絡がない。テスト期間で誰もいない教室は集中できるからと、明日の英語の傾向と対策の話をしていたのだが、急に窓の外を見てこれだ。
いつものことだ。
「つまりね今日で雨の日は一週間連続。でもって週間予報も傘ばっかり」
だからなんなのだろう。確かにここのところ雨ばかりだしこれからも雨ばかり、街はすっかり灰色に染め上げられている、溜め息の一つもつきたいというならわかるけど、それがどうして世界の消失につながるのだろうか、まったくもって理解しがたい。
「あー、いま、こいつバカだって思ったでしょう。まあ聞きなさい、この雨は単なる雨じゃないのよ。ここ一週間の雨を思い出してみなさい。毎日毎日小雨でもない大雨でもない、まさに雨って感じの雨が続いてたじゃないの。ずーっと一定だった。これはあたしが実験で確かめたから間違いないわ」
どうせその実験とやらは、三日ほど計量カップを屋外に置いてみたという程度のものなのだろう。なにしろ崖のひび割れから地底人の存在を、いつもよりも赤い夕焼けから多元世界の衝突の前兆を読み取る思考回路の持ち主なのだ、自由研究レベルとはいえ、科学的思考の片鱗を見せただけでも進歩したと言えるのかもしれない。
「で、私はこの雨の秘密に気付いちゃったってわけよ。いくらなんでも、毎日同じ量の雨が降るってのはちょっとありえないわ。つまりこの雨は誰かが意図的に降らしているってことなのよ。そうに違いないわ」
無茶苦茶だ。
が、彼女にとって重要なのは世界崩壊という結論であって、そこに至る論理や証拠ではないのだ。
「その誰かってヤツは、きっと神様とか言われているヤツね。そうよ神様が腐敗した人間社会とかに怒って、全部を無くしちゃおうとしてるのよ。ほら、あれ、昔箱船に乗って生き残ったとかいう話があったじゃない。でも今回はその方法もダメね。あの時はただの雨だったけど、今度のは全部を溶かしちゃう雨なんだから何をしても逃げられっこないわね。ほら、最近テロとか戦争とか不正とか温暖化とかいろいろと無茶苦茶じゃない。きっと神さまもお怒りなのよ」
単なる長雨からノアの大洪水もどきを連想するとは、なんともスケールの大きい話だ。もちろん彼女がクリスチャンであるわけはない。ノアの箱船に関する知識の出所もテレビのクイズ番組かなにかなのだろう。
実際のところ彼女はこの世界の腐敗を憂いているわけでも、世界の存在が耐え難いわけでもない。彼女にとっての世界崩壊というのは
「世界がとけてなくなるってことは今まで自然とか人間とかがずっと積み上げてきて、大事だって思われてるものが、みんなリセットされちゃって、ぜんぶ海になっちゃうってことね。考えるだけでワクワクしちゃわ」
という程度のことにすぎない。つまるところ彼女にとってこの妄想は単なる遊びであり、真剣ではあるが本気ではないのだ。
テスト、そしてその先の進路選択の重圧に少々耐えかねての一種の現実逃避。
いつものことだ。
お互いがお隣どうしで唯一の友達同士だった昔から、高校の同級生の親友同士となった今までずっと続いてきた二人だけのだけのささやかな遊び。人よりも純粋で、大げさで、夢見がちで、とっても寂しがり屋な彼女が私だけと共有した小さな、でも真剣な悪ふざけ。
時に耐え難い世界に抵抗するため作り出した、小さな女の子の小さな秘密。
「ってことだから、私たちは今を楽しまなきゃいけないのよ。わかるでしょ!」
彼女がこんなことを言い出すのもいつものこと。そうして二人でおもいっきり遊んで、喋って、笑って、全て冗談にして忘れてしまう。そうしてしばらくしたらまた彼女が新しい世界の危機を発見する。そのくりかえし。
――それがいつものことだったのに。
「というわけで私はデートよ。行かなきゃならないのよ。今を生きよ!世界短し恋せよ乙女ってね!」
私たちはいつまでも二人だけではいられない。彼女もいつまでも少女ではない。私以外の友達、私以外の相談相手、そして――
「じゃあ行くわね!また明日!あっ、安心してお土産はちゃんと買ってきてあげるから!」
と昔と変わらない最高の笑顔を残して彼女は教室から走り去っていった。
雨の音だけが人のいない校舎にとけていく。それは深く深くしみわたり私を静寂と孤独でみたす。彼女の声と言葉であふれていた私の体を。今は空の私の体を。静寂に押しつぶされそうになった私は逃げ出すように席を立ち家路についた。朝と同じように降り続く雨の中、お気に入りの傘をまわしながらゆっくりと歩いていく。
雨は降り続く、昨日も今日もきっと明日も。そして私はまた彼女に出会うのだ、幼なじみで、親友の彼女と。そして一緒に歩んでいくのだ、これからもずっと――
ふと歩みを止め傘をたたむ。目にうつる道路がビルが傘が、灰色にぼやけていく。夕方の街の音が、規則正しい雨音に吸い込まれていく。やがて視界にあふれる水が、そのすべてを溺れさせていく。まるで彼女の与太話のように、世界のすべてが水と灰色のなかで、かたちを失っていく。
そうして私は世界なんて消(と)けてしまえば、滅んでしまえばいいのにとねがう。
――いつものことだ。
作品名:彼女と私の消(と)ける世界 作家名:一筆