落日
時は昭和初期。
紫陽花の咲く、雨の静かに降るころだった。
「洋一郎。お前も三十歳だ。結婚する気になったか」
「ああ、うん。この前の見合いのお嬢さんの話か」
「そうだ。結婚する気にならんか」
「そうだな……。うん、しようか」
結婚なんてどうでもよかった。
なんだかつまらなさそうだな、とは思ったが、親の為にも身を固めなくてはいけない時期なのかもしれないなと曖昧に首を縦に振った。
ただそれだけだった。なにも考えていなかった。
「おめでとうございます!いやあ、一家安泰ですなぁ!」
「結婚したくないと言い続けた若様がやっと結婚ですか!大財閥の跡取りさまなんですから、ああ、よかったでございますよう!」
給仕たちは今にも泣き出しそうなほど喜んだ。
「ああ、ありがとう」
洋一郎の家は大財閥の、まあいわゆる金持ちの家だ。
だから跡取りとか後継者とか、なんとも面倒な話がいつも付きまとってうざったかったが、最近急に老けこんだ両親を見ているとそうも言えなくなってきた。
洋一郎は美男であったから、いい家柄であることもあり、沢山の女性から沢山の縁談をもらった。
だけどどれも同じようで、自分の好きな女性なんていなかった。
今回結婚する女性も好きだから結婚するわけではない。
紫陽花が咲いている。
美しい花だ。雨だれを静かに弾き、やわらかな色で咲いている。
雨の止んだ黄昏、美しく晴れた空は橙にそまっている。
二階の窓から見下ろす中庭。この厄介な家で唯一好きな物といえばこれだった。
穏やかな夕方だ。読みかけの本でも読もうか、と自室に入った瞬間、穏やかだった空気は一変した。
空から下りていく橙色の西日。
その光に照らされた部屋はひどくセンチメンタリズムで、ああ、まるで美しい絵画を見るような風景だった。
血なまぐさい香り、黒々とした重たい影がのびる。
死体と、泣き崩れる男と、散らばる紙と、流れ出す真紅と。
「ああ、なんてこと……っ医者、だれか医者を!」
慌てふためく執事の声遠く、色鮮やかなガラス窓から差し込む夕日の赤に照らされた床に倒れこむ女給の肢体。
「おい!いったいどうしたんだ!」
この女給には見覚えがあった。名をキヨ、という。
一番若くて気の弱い少女で、辛い思いをして泣いている彼女となんども話をしたことがあったからだ。
「泣くな、キヨ」
キヨはいつものように泣いている。綺麗な涙だ。
「私、自分で、首を、切りました……」
ひどく驚いた。
キヨからは絶えずひゅ、と空気の漏れる音がする。
「なんてことをしたんだ!」
「ええ、ごめんなさい、迷惑をおかけしました…」
自殺して「ご迷惑をおかけしました」とは変な話だ。
「私…どうしても、洋一郎さまに…恋焦がれて…」
眉を下げて涙をぽつぽつとこぼしながら、
「でも、私は貧乏人の娘…貴方とは身分が違います。結ばれようなんておこがましい…。わかっているのです。でもこの前、結婚すると聞いて、もうどうすればいいかわからなくて…」
薄い唇はもう青白くて、顔は土色だった。ああ、僕の手の中で命が絶えていく。
「だから、こうすれば、洋一郎さまは……私を……忘れないから…」
「もういい、しゃべるな」
キヨにもおめでとうございます、と小さな声で言われた。
寂しさや悲しさなんて読み取れなかった。
どうでもいい気持ちで結婚をきめて、ああ、なんと愚かしい。
「お前なんか、お前なんか気にかけやしなかった」
まったくだ、ほんの少しも気にしなかった。
「でもお前としゃべっている時間や、お前の声や涙は好きだったよ」
「そんな……嘘でしょう……?」
「嘘じゃない」
すこし色素のうすい目が見開かれて、血のこぼれる口元を少し上げて、生気のない顔で綺麗に泣いた。
「うれしいです…」
「馬鹿な子だ。こんな男のために首を切って。嬉しいなんて」
「ねえ、忘れないでくださいね…?私のこと、片時も…奥さまを、めとられても、絶対に…」
「忘れないよ。絶対だ」
日が沈んでいく。あたりはひときわ明るくなる。この光線のような光が完全に消えれば夜が来る。
まぶしくて、キヨの顔もよく見えない。
「ほら、泣かないで。苦しかろう?今すぐ鎖を外してあげよう」
キヨが首を引き裂いたナイフを握りしめ、高く振り上げるとキヨは笑った。
何もかも良く見えないまぶしすぎる夕日のなか、確かに、わらった。
僕たちはいつも笑いあって、雨を嫌い、こうして笑って―――。
こうして二人の日々を思い出してみても、なんだか曖昧であった。
確かなのはこの腕にあった先刻までの君のぬくもり。
涙がこぼれて、落ちて、いったいどうしたんだろう。
何が悲しい?
何も悲しくないさ。
太陽が去っただけだろう。
夜が来たんだ。
執事が呼んできた女給や執事や医者など大勢の人々が部屋に押しかける。
そして皆、口をそろえてまあ若旦那さま、なんてことをと大声を出して、騒いだ。
もうあたりは真っ暗だ、夜が来た。
血の中に横たわるキヨのほほに口づけて、さようならなんて可笑しいね。
そう、太陽が空から降りただけだ。
僕とキヨは偶然にであって、こんな落日を迎えた。
そして僕も、もう動かないキヨと同じく、笑った。