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月光

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 月光



「綺麗だね」
 アルコールで火照った頬に当たる夜風を心地よく感じながら私が告げる。
 夜空に浮かぶ満月はその輪郭がぼやけるくらいに煌々と輝いていた。
 もちろん月自体が発光しているわけじゃない。太陽光を反射しているだけ。
 でも、その光はとても静かで優しい。
「中秋の名月だな」
 私の隣で足を止めたスーツ姿の彼も十五夜の月を見上げて目を細める。
「今日はゴメンね」
 仕事が終わってから突然に「飲みに行こう」と電話で呼び出したことを今更ながらに謝ると、彼は「いいよ、俺も楽しかったから」といつものように微笑んでくれた。そのやわらかな笑顔は昔から変わっていない。

**********

「大きくなったら結婚しよう」なんて約束したのは、まだ恋なんて知らなかった頃。
 私たちは幼稚園から大学までずっと同じで、へたな兄妹や姉弟より気心が知れていると思う。まあ、今日のように私が甘えてばかりの関係だけれども。
 一度くらいは「いい加減にしろ!」などと怒鳴られてみたい気もするけれど、実際にそうなったら私は泣いてしまうかも知れない。
 居酒屋での話の大半は私の愚痴で、その内訳は会社の上司や同僚への文句が少々と、残りはアイツへの悪口雑言。
 それらを彼はそよ風のように受け止めてくれる。

 中二の時に転校してきたアイツ――藤原隆也と先に仲良くなったのは彼の方だった。正反対の性格だと思われる二人は最初から妙に気が合っていた。
 言葉づかいが乱暴で不良のような格好。そんな転校生を当時の私は毛嫌いしていて、高二の夏に自分が告白するなんて夢にも思っていなかった。
 今でも好きになった理由を簡潔に述べるのは難しいのだけれど、いつの間にかその顔を見るだけで息苦しくなって、挨拶をするだけで胸が派手に高鳴り、抱き締められると涙が零れるようになっていたのだ。
 でも、彼の親友であり私の彼氏でもあった男は高三の秋に突然中退して、アルバイトで貯めたお金で海外へと飛び出した。 
「俺は世界を撮る写真家になる」
 初めて私にそう告げたのは、もう出発の荷造りが終わった後。
「勝手にすれば」
 そう言い捨てて背を向けた時、私の初恋は終わった。確かにそう思った。
 だけど、その後も当たり前のように私に電話やメールをしてくる。いつも『今〇〇〇にいる』とかいうような味気ないメッセージ。そんなものを心待ちにしている自分が時折無性に情けなくなった。私から連絡してもまともに返事がくることなんてほとんどない。
 最近は写真が雑誌に載ったりすることもあるらしい。これは彼から聞いた話で、私は見たことないし、興味もない。
 あれから一度も日本に帰ってきていない。その間に私の大学生活は終わり、今ではOLになっていた。
 この一週間はメールすらこない。
「もう隆也とは別れる」
 5杯目のジョッキを飲み干した私が酔いに任せてそう宣言すると、彼は少し困ったように眉を下げながら何も答えなかった。

**********

「ずいぶん前に月と太陽の話をしてくれたよね」
「……そうだっけ? 忘れちゃったな」
 静まり返った住宅街の路上でしばらく月を眺めた後、私たちはゆっくりと歩き出す。
 私が住んでいる賃貸マンションの前まで来ると、少し後ろにいた彼が「じゃあ、俺はここで」と告げた。
「上がっていけば?」
 振り返ると馴染み深い顔が少し遠くに見える。
「いや、もう遅いから。終電があるうちに帰るよ」
 ひとりで夜道を歩いていく彼の後姿。誰もいない私の暗い部屋。そんな光景が脳裏をよぎった。
 月の光に照らされたその長身を抱きしめたら、その唇を求めたら、彼はどうするだろう?
 そんな考えが急速に熱を帯びて想いになっていく。
 私が近づいても彼は視線を逸らさない。手を伸ばせば届く距離に彼はいる。
「……鳴ってるよ」
 彼の言葉を聞く前からショルダーバッグの中から聴こえる電子音には気づいていた。もう一度「出た方がいい」と言われて取り出した携帯の通話ボタンを押す。
『お前に見せたい写真がやっと撮れた』
 私の言葉を待たずにアイツが言った。相変わらず横柄でぶっきら棒な口調で。
「今、佐伯くんと一緒にいるの」
 そう言ってやろうと思って、一瞬言葉に詰まった。
『来週、日本に戻る』
 それだけ告げると、私の返事も聞かずに切れた電話。
 あの頃から何も変わっていない。世界は自分を中心に回っていると思っている馬鹿な男。
 そんな奴の引力から逃れられない愚かな女。
「良かったな」
 ずっと私を見守ってきてくれた声に顔を上げる。

 きっと私は泣き笑いのような顔をしているのだろう。
 私だけの月が静かに優しい笑みを浮かべていた。


作品名:月光 作家名:大橋零人