煙に巻かれる
周りに乱立するビル群よりもさらに高いビルの吹きさらしの屋上。男は一人、転落防止用の高いフェンスの外側に立っていた。一メートルもない狭い幅のそこで、後ろ手にフェンスの編み目を掴んで寄りかかる体制。スーツのボタンを開けっ放しにして、ネクタイも外していた。強いビル風が吹き抜ける度スーツの裾を跳ね上げ、音を立てる。髪も一緒に風に煽られて見るに耐えない状態だったが、そんなことはどうでもよかった。
ふと背を離し身を前に出して、頭を下げて視線を落とした。四十数階分の遥か下、ビルとビルの隙間を縫うように張り巡らされた細い道路。昼時を過ぎた今は営業回りの車がまばらに通り抜けていく。色の判別すらつかず点としか認識できないそれらはただ巡る風景の一部でしかない。そして逆にこちらの存在もあちらからはそうなのだろう。いや認識すらされないだろうな、この距離だ。いてもいなくても変わらない、それ以前だ。
身体の奥、心臓に近い位置で何かがくすぶる。自分の思考に対する感覚的な否定と、それを言葉にできないもどかしさがそうさせているのだと思った。いつも論点がずれているような感覚が消えない。何かが違う。それでも何が違うのか分からない。
また風が吹いた。吹き上げるような風に息が詰まる。目を開けていられずに目蓋を閉じた。ふっと目眩のような感覚と落ちていくような錯覚。上から注ぐ日が身体を下に押しているように、吹き上げる風が抵抗して押し上げようとするように、ゆっくりと降下していく。掴んでいるはずのフェンスの感覚が薄らいでゆく。そのまま、まっすぐに下へ、下へ。
急に風が吹きやんだ。ふっと落下していく感覚が消え、指がフェンスから離れかかっている感覚が戻る。とっさに両手に力を込めて掴んだ。目を開いてみれば、上体は大分傾いて前に倒れかかっていた。あと数度傾いていれば完全に手が離れて落ちていきそうな体制。心臓が今更に早鐘を打ち、身体が熱を持つ。止めていた息が一気に吐き出されて酸欠のようなだるい重みを感じた。
男は大きく息を吸い込み、ゆっくりと背をフェンスに預けた。目の奥で白い光が点滅している。視界が色を失って線画のような風景に見えていた。徐々に呼吸が落ち着いていく。平静を取り戻していく鼓動と共に風景も色を取り戻していった。
精神にも余裕が戻ってくる。乾いた口の中を誤魔化すように舌を動かした。空気をやたら吐き出す形で自嘲の響きを持った言葉が小さくこぼれた。
「おいおい、落ちたかと思ったよ」
全身が冷や汗に塗れていた。自覚すると急に不快に感じてくる。Yシャツの襟元を掴んではためかせ、風を送った。身体の表面だけを覆った熱気が冷めていく。同時にくすぶっていた何かが消えていった。それは水をかけられたように一瞬だった。代わりに立ち登った煙は広がりを求めて立ち消えるように薄くなっていき、すぐに感じられなくなってしまう。
「んだってんだよ……」
訳もなく変化してしまうそれに悪態を吐く。この訳のわからない感覚は自分にも説明の仕様がなかった。いつまでも形を変えてまとわりつく。
涼しさが寒さに近くなってきて手を止めた。掴んでいた手に力が入っていたらしい、襟に癖がついてしまっていた。変な方向に曲がった襟に苛立ちに近い何かが芽生える。そしてまたそれは自分自身に返ってくる。
行き場のなくなった感覚をため息と共に吐き出し、男は屋上を後にした。