しのぶ橋情話 その壱
お店(たな)では皆の目もあるので、ほとんど目を少しだけ合わせるのがせいぜいで、話もできない代わりに、ここで逢えた時には小半時くらいの逢瀬を夢心地でを過ごしていた。 おさちは伊之助が大好きだった。 それは伊之助も同じで、大店の一人娘のおさちと所帯を持つことなど無理な話だとは知りつつも、逢うたびにいろいろ良くしてくれるおさちのことを思うと、病に伏せる母親のことや、文化文政の世が代わって、「倹約令」のせいで、飾り職の仕事も減り、今日の暮らしもままならぬことなどを忘れられるのだ。
おさちのことを想うと胸が締め付けられるような切なさに、「いっそのこと二人で。。」と思わないではなかったが、今日まで目をかけてくだすった大旦那さんを裏切るような真似をすることなど、考えられない了見違い。 それもよく判っていた。 なにより一向に本復もままならぬおっかさんを置いて、家を出ることなど できようはずもない。
おさちは十六 伊之助は来春には十九の年になる。 ままならぬ恋をこうして一年も胸に抱いて、何がどうなるでなく、日々が過ぎていくのだった。
そんなある日 この大店「伊勢屋」に新しい奉公人が入ってきた。 なんでも上方(かみがた)から流れ者同然でやってきた「清二朗」という男であった。 歳は二十歳過ぎだという。 たいそう男っぷりもよく上背もあり、早い内に上方訛りも取れ、店の女中どもにも騒がる始末。、商いのほうも如才なく、「伊勢屋さんのところは 良い奉公人が・・」と町でも評判になり、誰もその素性なぞを詮索するものもなかった。 事実、お客も清二朗めあての娘や、彼是のお内儀様までが、上得意として足を運んでくるおかげで 傾きかけていた商いも繁盛し始めていた。
清二朗は始めはおさちに声をかけることなどなかったが、次第に店の誰もが、小間物の品揃えや商いの一般を清二朗に頼るようになってからは、大旦那さまとて、ゆくゆくは・・・と思はないではなかったのである。 黙っていても売れに売れていた前の時代とは違うのである。 江戸が一番華やかで民草の暮らしも浮ついていたといえば言えなくない中で、伊勢屋もその勢いに乗って今日の身代を築いてきたのだが、華美なものはご法度、質素倹約を旨とせよ、となると、一転、月々の売り上げも肩を落とすように傾いていった。
そんな中で、いわば店の救いの神とでもいう様な「清二朗」の出現だったのである。
おさちは、清二朗の時折の視線には気づかぬ振りをしていた。 男っぷり悪くは無い。 おとっつぁんとて、清二朗を番頭さんや先輩格の手代よりも心強く思っていることも判っていたのだが、その先のことを考えると、どうしても胸騒ぎこそすれ、この男に心を寄せるなどということは考えられなかった。 なにより伊之助のことが好きであった。
そして、初心な未通女なりにこうした「出来上がった男」にひとつの恐れもあったし、ときたまに見せる、人を見据える時の心ねの冷たさのようなものも感じていたのである。
見据える、とは特に「品」を納めに来る伊之助を見るときのことであった。
自分たちのほとんど一瞬の目配せを決して見逃さなかった清二朗とはどういう男なのだろう。
何をどう知っているのだろうと思うと底知れぬ怖さを思うのだった。
<続く>
作品名:しのぶ橋情話 その壱 作家名:風間糀ニ郎