新世界
この夫人にはいつも見透かされる。物心ついた時から世話係兼教育係として側に使えてきたのだから、それも当然か。それにしてももう子供ではないのだから、多少は放任してくれても良いだろうに。
「フェルディナント様は頭の良い方ではいらっしゃいますが、御自分のことを顧みることのない方なので管理が必要なのです」
「随分な言われようだ。私とてきちんと自分のことは自分で……」
「熱中されるあまり、お声をかけても気付かれないこともしばしばです。私が注意しなければ寝食も忘れて御本をお読みになっているではありませんか」
「いやそれは……」
「御自分の管理がお出来になったら、私はいつでもお役を降りさせていただきます」
自分のことぐらい自分で管理出来る、と言い返そうとして止めた。そう言ったとしてもミクラス夫人からまた些細なことを指摘されるに違いない。いつになってもこの夫人は自分を子供扱いして止まないものだった。しかし夫人に辞められても困る。夫人がこの家のことを取り仕切ってくれるから、私も安心して職務に励むことが出来るのだが――。
「それは少々困るかな。ルディも俺も」
それを伝えようとしたちょうどその時、扉の方から声が聞こえて来た。弟のロイの声だった。いつのまにか開いた扉からロイが部屋に入ってくる。
ミクラス夫人は驚いてハインリヒ様、とその名を呼んだ。ロイが此処に居ることに驚いたのは夫人だけではなかった。
「早くとも帰還は明日と聞いていたが何かあったのか」
「いや、その逆だ。何も無いから早く戻って来た。それに明日から天候が荒れるということで帰りの便が早まったということもあってな。つい今し方、宮殿で陛下に帰還の報告を済ませて来たところだ」
ロイはこのひと月、国境の視察を行っていた。その肌が少し陽に焼けたように見える。ミクラス夫人は御帰還のお祝いをしなくてはと少々焦った様子で、部屋を去っていった。ロイは軍服の襟元のボタンを片手で外しながら、側にあったソファに腰掛けた。
「どの町も平穏だったのだが、南部の農村が今年は不作だ。それ以外は至って例年と同じというところかな」
「南部か。おそらく先々月の洪水が原因なのだろう」
「そのようだ。村長が俺のところに来てその話をしていっただけで、俺は村の状況まで見ていない。使者を派遣すると言っておいたから、そのように取りはからってもらえるか」
「ああ。解った。明日にでも人選を行う。被害の程度によっては何らかの援助も考えなくてはなるまい」
扉がノックされる。ミクラス夫人がまた入室し、ロイの許に珈琲と菓子を置いた。労いの言葉をかけてから、夫人はまた部屋を去っていく。ひと月ぶりにロイが帰還したということで、いつもより張り切って食事の支度を命じるつもりなのだろう。
「お前も忙しそうだ」
ロイはカップを持ち上げながら机の上を見遣って言った。
「それでも今日は半日、休暇を頂いた」
「休暇を貰ってもそれだけの書類を処理しているのだろう?少しは休めば良いものを」
「お前もミクラス夫人と同じことを言う。子供の頃と違って身体は丈夫になっているから心配は無用だ」
「どうだか」
ロイは笑ってから、小さなボンボンを摘み上げ、それを口に運ぶ。
私は子供の頃、身体が丈夫ではなかった。地球の地形が変わってからというもの、環境が悪化し、そのため私のように先天的に虚弱な体質で生まれる者が多い。弟のロイと違い、子供の頃に外で遊んだという記憶は殆ど無い。ベッドの上か、それとも部屋で本を読んでいた。こうした虚弱体質の者はゆっくりと身体が環境に慣れていくか、それとも身体が耐えきれず死に至るかのどちらかだと医師達は言う。実際、前者のように身体が環境に慣れていく者は少なく、大抵が何らかの病を併発して死に至る。私自身も成人するまで生きられないかもしれないとも言われていた。
『フェルディナント。私はお前に期待はしていない』
私は常々、父にそう言われてきた。父は身体の弱い私のことを一家の荷物のようにしか考えていなかった。ロートリンゲン家は新ローマ王国の建国以前から、皇帝一族に仕えてきた、言うなれば武門だった。代々、軍務省の重責を担い、父も軍の大将という地位にあった人だった。私が生まれた当初は、父も跡取りが出来たと喜んだようだった。ところが、後を継ぐべき長子はこんなひ弱な体質だった。
父は酷く落胆した。しかしその一年後、元気の良い弟のロイが生まれた。ロイは私と違い風邪ひとつひかない強い子供だったから、父はロイを可愛がった。誰の目から見ても、それは明らかなことだった。それに対して、母はいつも私を庇ってくれた。母はロイと私をいつでも平等に扱ってくれる優しい人だった。
『ルディ、具合が良いようなら少し外を散歩しましょう。ロイを誘ってらっしゃい』
二人で悪戯をして叱られることもあった。母とロイと三人で過ごす時間は私にとって心安らぐ時だった。そして、ミクラス夫人も私と弟を平等に扱ってくれた。具合の悪いとき、看病してくれるのもこの二人だった。
またロイも、自分が父に愛されていることをひけらかすような子供ではなかった。外に出ることの適わない私に、ロイは外の様子を語ってくれた。私達は仲の良い兄弟だった。
15歳となる頃には、私の身体も大分丈夫になり、帝都の高校に通えるようになった。それまでは事あるごとに発熱し寝込んでいたから、学校に通うことさえ出来なかった。ひとつ年下のロイは、翌年に寄宿制の士官学校に通うことが父によって決められていた。私と同じ高校に通いたいとロイは言ったが、父によって一蹴された。
高校に入って、それまでと違う生活に身体が慣れるまで一年かかった。一年目は数日学校に行けば数日寝込むような状態で、出席日数も足らず、留年となるかもしれないと覚悟したが、課題試験に合格して何とか乗り切った。私が二年生となると同時に、ロイは士官学校に進み、家を出て寄宿生活に入った。そのため、それから数年は父と母の三人で暮らしていた。話題に上がるのはロイの話ばかりで、多少の息苦しさはあったが、この頃ひとつの変化があった。
それまで、私に一切の関心を寄せなかった父が、お前も自分の身くらいは守れるようにならなければと言って、武術を教えてくれるようになった。父は銃や剣の扱い方を一通り教えてくれた。そして父から教えを受けるなかで初めて誉めてもらえた。なかなか筋が良い。やはりお前の身体にもロートリンゲンの血が流れているということか――と。
初めて父に私の存在を認めてもらえたようで、嬉しかった。きっと私が頑張れば、父はもっと認めてくれる――私はそう考えて、勉学に勤しんだ。このような身体では軍に所属することが出来ない。だが文官になることは出来る。もともと成績は良かったから、それに磨きをかけるように勉強した。高校・大学ともに首席で卒業し、私は官吏の採用試験を受けた。合格して、希望通り外務省への配属が決定した。
ロイは士官学校を優秀な成績で卒業すると同時に軍に入った。其処でロイは頭角を表していった。父はそんなロイを誇りにしていた。お前も身体さえ丈夫ならロイのようになれたかもしれないと常々言っていた。