新世界
窓の外を見遣って、ふと帝国のことを考えた。帝国の話を耳にするたび、ルディのことが思い出された。
皇女との縁談の話は、瞬く間に宮殿に広がり、国内にも広まっていった。まだ皇帝に明確な返事をしていないにも関わらず、邸には多くの祝いの手紙や花が届き、マスコミも殺到した。フリッツが彼等の対応に当たってくれている間、邸に帰らずに宮殿で過ごした。宮殿にもマスコミが張り詰めていたから、外に出ることすら出来なかった。
こんな状態だったから、ロイも邸に帰っていないようだった。そしてロイは私を避けるようになった。私自身も無意識のうちにロイを避けていた。
返事をしていないといっても、皇帝の命令となれば断ることが出来ないのは決まっていた。それに私も今以上の権限を手に入れたいと考える節があったから、はっきりと断ることも出来なかった。そのままずるずると日数だけが経過していった。ロイと顔を合わせないまま、一週間が過ぎ、二週間が経とうとしていた。
マスコミが家に詰めかけて十日が経とうとした頃、フリッツが邸に詰め寄るマスコミを上手く追い払ってくれて、漸く邸に戻ることが出来た。ミクラス夫人が機転を利かせて、運転手のケスラーではなく彼女の夫で、ロートリンゲン家の管財人を勤めているパトリックが宮殿に迎えに来させてくれた。ロイも私と同じように邸に帰っておらず、パトリックはロイも連れて帰るつもりだったようだが、ロイは忙しいから帰らないと言ったらしい。
曖昧な態度の私に怒っているのだろう。
「フェルディナント様。私は驚きました。初めは何かの間違いかと思ったのです。皇女様のお相手がハインリヒ様ではなくフェルディナント様と……」
「ミクラス夫人。済まないが少し考えたいから、一人にしてもらえないか?」
部屋に珈琲を持って来てくれたミクラス夫人にそう告げると、夫人は此方を見てから言った。
「では一言だけ申し上げさせていただきます。フェルディナント様、どうか誤った道を進まれませんよう」
「……誤った道?」
「弟の恋人を兄が奪うなど、人の道からそれたことです」
「……陛下の御命令だ。背けば私は宰相の職を失うだろう。そしてたとえ私がそれを覚悟で断ったとしても、マリ様の相手がハインリヒに決まるとは限らない」
「それでも宜しいではありませんか。ハインリヒ様も納得なさるでしょう」
「私はまだ宰相としてやりたいことがある。それを諦めろと……?」
「フェルディナント様はまだお若くて才能もおありです。また宰相となる機会が巡って来る筈です」
「……その時までこの私の身体が保てばな」
「フェルディナント様……」
「考え事をしたい。下がってくれ」
ミクラス夫人は一礼して、部屋を去っていく。彼女の言葉ひとつひとつに、胸がちくりと痛んだ。ミクラス夫人の言葉は尤もだと思う。そしてそれが正しいことなのだということも解っている。
だがこの国を変えるためには――。
ほんの半年前まではいつ死んでも悔いはないと思っていた。しかしあのレオンと会ってから、この国を変えたいと強く思うようになった。私にはそれが可能な宰相という立場がある。私ならこの国を変えられる――と。
そして宰相ではなくさらに上の、皇女の夫となれば、より容易にそれが可能となる。この国を専制から民主制に変えることは、民にとっても良いことの筈だ。少なくとも、たった一人の君主の命令に翻弄されることも無い。そして、政治に国民の意志を反映することが出来る。
ロイさえ納得してくれれば、上手く収まる――。
否――。
ミクラス夫人の言う通りなのか。それは誤った選択だと。
私が皇帝の申し出を辞退しなければならないのか。たとえロイと皇女マリとの結婚が認められずとも――。
ロイと皇女マリとの結婚が認められるならば、私は辞退する。それが明確であれば既に辞退していた。ロイならば私の意志を継いでくれる。この国を民主化に導いてくれる。
だが相手がロイでなければ、旧領主層の息子の誰かが皇女マリの相手となれば、その望みは潰えてしまう。旧領主層は民主化を望んでいない。この帝国が世界の第一位の強国であり続けることを何よりも望んでいる。旧領主層のうちで私と同じような考えを持つ者は少ない。思い浮かべても三家の当主だけで、いずれも既婚者であり、皇女マリの相手に推挙されることは無いだろう。
では民主化への道はこのまま閉ざしてしまうのか。諦めるしかないのか。それとも根気良くその時代が来るのを待つのか。
否――。
私は変えたい。
この国を。きっと私にしか出来ないことだ――。
大きく息を吐いた。やはりどちらの道も選べない。少し窓を開けよう――そう思って立ち上がる。不意に手が何かに触れた。帰宅して机の上に置いたままになっていた携帯電話だった。着信履歴を見ても、やはりロイからは何の連絡も無い。それだけ怒っているか、呆れているかのどちらかなのだろう。
そういえば――。
レオンと番号を交換していた。彼ならば何と助言してくれるだろう。人としての情と民主化とどちらを選ぶか。
しかし彼と出会ったのも、もう半年の前のことだ。憶えているだろうか。
レオンの名を検索して、その番号まで辿り着く。発信ボタンを押せば、彼と話が出来るかもしれない。
だがその発信ボタンを押すことが出来なかった。躊躇した。
これは私が私自身で決めることだ。
そして私自身が全ての責任を負わなくては――。
ならば――。
私は私の望みを叶えよう――。
躊躇を振り切るように拳を握り締める。もう迷うまい。迷ってはならない。
皇帝の申し出を受けよう。皇女マリとの結婚を承諾し、私はいずれこの国の体制を変えてみせる。
「閣下。マリ様との御結婚を決断なさったと伺いました。おめでとうございます」
皇帝に受諾の意志を伝えた翌日、宰相室に勤務する面々は揃って祝いの言葉を呉れた。皇帝も非常に喜んでいた。これでマリのことも安心出来る。帝国は安泰だ――と。
その話はすぐに宮殿に広まったようだった。行き交う人全員から、祝いの言葉を貰った。しかし、ロイとはまったく顔を合わせていない。邸には帰っているようだが、食事も何もかも私を避けているようで、同じ邸に居ながら、この数週間、顔を合わせたことが無かった。ミクラス夫人は私の決断に対して、苦言を漏らすこともなく、いつも通りの様子で接してくれた。
一方、皇女マリとの婚約発表は来月執り行うこととなった。そのための用意が整えられるなか、宰相としての執務も多忙を極めていった。
いつかはロイも解ってくれる。そして私も私の気持をロイと向き合って話さなければならない。そう思ってはいたが、なかなかそれが切り出せないでいた。
一日一日がそうして流れていき、皇帝に受諾の意を伝えてから一週間が経った。この日は早く帰宅することが出来たので、ロイの帰宅を待って、きちんと話し合おうと思った。時計の針は七時を過ぎ、八時を回った。軍務省は忙しいのだろうか――しかしミクラス夫人にも連絡が入っていないらしいから、あと少しで帰ってくるだろう。遅くとも九時までには帰宅する筈だった。