新世界
門の脇の小窓を開けて、其処に掌を翳す。生体認証が、俺がこの家の人間であることを確認して、門がゆっくりと開く。玄関までの道程を歩いていると、扉が開いて、フリッツが出て来た。
「ハインリヒ様……!」
驚きの声と表情が俺を出迎える。フリッツはその眼に薄らと涙を浮かべていた。良かった――、お帰りになられて本当に良かった――、彼は繰り返しそう言った。
「……アジア連邦に居た。今回の戦争で此方に来ることになって……」
「ハインリヒ様。お早く、フェルディナント様の許にお行き下さい」
フリッツは俺の言葉を遮って言った。フリッツにしては珍しいことだった。
「フェルディナント様はずっとアクィナス刑務所に捕らわれていて……、一昨日救出されたのですが、御容態が悪くて……」
ルディは刑務所から救出されてすぐに病院に運ばれたらしい。そして昨日、この邸に戻ってきたということだった。
邸の中に入ると、使用人達が揃って俺の名を呼んだ。ミクラス夫人の姿は無かった。きっとルディに付き添っているのだろう。
俺は本当にルディと会うのか――。
階段を上りながら考えた。意地を張り続け、それを打ち消すことが出来ないままだった。ルディの部屋の前まで来て扉を開けるのを迷っていると、フリッツがその扉を開いた。
ルディのベッドの隣で、ミクラス夫人が立ち上がる。ハインリヒ様、と声を挙げて此方に駆け寄った。今迄どちらにいらっしゃったのですか――と俺に咎めるように言いながら。
「ずっと……、ずっとお探し申し上げておりました。フェルディナント様もずっと……。御無事なら御連絡ぐらい寄越しても宜しいではないですか……!」
「……済まない……」
「そうすれば、フェルディナント様の状況もお知らせすることが出来ました。このようなことになる前に……」
ミクラス夫人はその場に泣き崩れた。俺の背後に居たフリッツが夫人を支える。
この時になって、ルディのベッドに視線を遣った。ベッドを取り囲むように心電図や人工呼吸器といった医療器具がずらりと並んでいる。其処からルディに何本もの管が伸びていた。
「お側に行ってあげて下さい……。呼び掛けてあげて下さい……」
ミクラス夫人が泣きながら促す。躊躇しながらも、一歩一歩ルディに近付いていった。
こんな風に、無数の機械がルディの身体の機能を補っていることは別に珍しい光景ではなかった。去年もルディは宮殿で倒れ、一時、意識不明の重体に陥った。その時も今と同じように人工呼吸器はシューシューと音を立てていたし、心電図がルディの脈を絶えず監視していた。
だから、こうした光景自体は珍しいものではなかった。
が――。
ルディの顔を見た瞬間に言葉を失った。背筋にぞっと氷のように冷たいものが流れ落ちるのを感じた。
死人のように顔は土気色で、頬はげっそりとこけ、眼の下には深く彫り込まれたような隈がある。
あまりに痩せすぎていて――、以前の姿は見る影も無い。首にも筋が浮き出ている。よく見れば、ルディの身体自体が薄っぺらくて――。
莫迦だ――。
莫迦だ、ルディは。何故、皇帝に刃向かった……?
皇帝の不興を買えば、厳罰に処されることは解っていただろうに、何故逆らった? その身を犠牲にしてまで侵略を止めようとした?
違う――。
莫迦は俺だ。ルディがそういう人間だと知っていたではないか。戦争という手段だけは絶対に用いてはならないとルディが常々言っていたのを、俺はいつも間近で聞いていたではないか。
そしてそうだと気付いていたではないか。気付きながら、必死に否定していた。ルディは己の権力欲のために動いているだけだと。
そんな人間ではないことは、俺が一番知っていたのに――。
いつも俺を支えていてくれた人間を。
俺は俺の手で突き放した。そればかりか――、ルディを裏切った。
ルディに裏切られたのではない。俺が裏切った。
「……ルディ……」
手を伸ばしてそっとルディの身体に触れる。肌は乾ききっていた。こけた頬は骨張っていて――。
「済まない……。ごめん……」
俺が悪かった――。
何度呼び掛けても、ルディは眼を覚まさなかった。
心臓と肺が殆ど機能していないのだという。機械の力に頼ってもそれには限界があって、移植手術を受けることになっているのだとミクラス夫人は言った。
ただし、ルディの場合、他人からの臓器提供は難しいのだと言う。移植に成功しても拒絶反応を起こす可能性が高いと医師は判断した。そのため、ルディ自身の細胞を培養して、心臓と肺を作り、それを移植することになった。その細胞は既に取り出したとのことだった。
しかしそれも簡単な話ではなかった。心臓と肺が形成されるまでに三週間を要す。それまでの間、ルディの身体が保つのかどうか――。そして移植となれば大手術となり、果たして弱り切ったルディの身体でそれが耐えられるのか――。医師はかなり厳しい状態だと言ったらしい。
「病院で一度意識を取り戻されたのです。その時もハインリヒ様のことをお尋ねになって……」
ミクラス夫人はルディを見つめながら言った。
「ハインリヒ様。ずっと此方に……、これからはずっとこのロートリンゲン家にいらして下さいますよね……?」
「……ああ」
アジア連邦で客将の立場にあることを忘れた訳ではない。
だが、今この状態のルディを見て、この家を離れる訳にはいかなくなった。出来なかった。ルディともう一度きちんと話そう、話して謝ろう――。
こんな状態のルディを目の当たりして初めて、素直にそう思うことが出来た。