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この狭間に生きるもの

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「なあ、――」
 静寂な空間に、少年の声が木霊する。
「なあってば。いるんだろう、」
 ――。
 彼は先程と同じ名前を、その紅い唇にのせる。
 しばしの沈黙の後、少年の後ろに黒い影のようなものが音もなく現れた。
「――何か用か」
 その縦に長い影――長身の男は、低い声で不機嫌そうに少年を見下ろした。
 だがその不機嫌そうな声にはおかまいなしに、少年は机の上にあった焼き菓子に手を伸ばして頬張ると、椅子に座ったまま、ほら、と手に持っていた大きめの本を彼に提示した。
「見てよ。悪魔と天使だって。両極端な存在」
 男は少年が示した本を持ち上げると、開かれているそのページに眼を落した。確かにそのページには、如何にも人間が想像しそうな、陳腐で幻想的な悪魔と天使の像が描かれてあった。
 男はひとしきりそのページに眼を通すと、眉間に皺を寄せて、瞳だけで少年を睨みつけた。
「これが何だ」
「ねえ、――」
 例えば、人間に、悪魔と天使の存在、どっちを信じるって聞くとする。
「どっちかだよ。二者択一、両方信じない、信じるはなし。必ずどっちか。どっちか片方だ」
 そうしたら、人間はどっちって答えると思う?
 男は一瞬沈黙する。そして再度、その本の悪魔と天使に眼を落した。
 少年はもう一枚、机の上から焼き菓子を手に取ると、それを小気味の良い音を立てて咀嚼した。
 中々答えない男に焦れたように、少年は椅子を回転させて体ごと彼と向き合うと、その顔を見上げた。
「ね、どっちだと思う」
「……俺が知るか」
「僕はねえ」
 少年は眼を細めると、唇の端だけで柔らかく笑った。
 悪魔だと思うんだ。
「人間は、悪いことがあったら、自分たちのせいではなく悪魔のせいにする。良いことがあったら、自分たちのせいにする。……天使は信じてるかもしれない、でも悪魔はその存在を信じている」
「……意味がわからん」
「だからね、悪魔はいるかもしれない、本当に存在するかもしれないって彼らは思うことがあるってゆうことさ。悪いことが起きる。これは悪魔の仕業だ。悪魔のせいだ、そうに違いない。自分たちのせいではない!彼らはそう思う」
 芝居がかった口調で、少年は言った。
「でも、良いことがあった場合は?彼らは思うんだ、自分たちが頑張ったからだ。自分たちの行いのおかげだ。神は、天使は、いるかもしれない。でもその存在は、宙に浮いたまま」
 少年は口を閉ざした。しばしの沈黙が、暗い空間を支配する。
 男は本を机の上に静かに戻すと、それはどうかな、と静かに言った。
「奴らは天使の存在も信じていると思うぞ、俺はな」
 そんなの、個人がどう思うかだろう。そんなこと追及したって、何にもなりはしないではないか。
 男はむっつりと告げると、再び椅子を回転させて男から目をそらした少年の頭の上を、呆れたように眺めた。
「……何か嫌なことでもあったのか」
「……別に」
「おかしいな。だったらお前がそんな偏った思考を思いつくとは到底思えんのだが」
 しかも俺まで巻き込んで。
 少年は黙ったまま、椅子を軽くゆらして遊んだ。そのきい、きい、という音だけが、男の耳に届いてくる。
 男は溜息をついた。
「そうだな、嫌なことでないのならば、逃げたいことがあったのか」
 逃げ出したいようなこと。
 少年の動きがゆるく止まる。椅子の軋む音が空間から排除された。
 当たりだな。
 男は再度溜息をついた。
 こういうところが、この少年の完璧そうに見えて、まだ完璧にはなりきれないところでもあった。
「まあ何であれ、俺には関係ないことだ。自分自身でけりをつけろ」
 若干突き放すように言うと、少年はそれを引き留めるように、縋るように、小さく呟いた。
「……久し振りに、人間にあったんだ」
 少年の言葉に、男の眉がわずかに上がる。
 ……最近たまに人間がここを訪れていることは知っていた。空間に、異物が紛れ込むような感覚を、たまに感じ取っていた。
「……それが?」
「……人間を、信じてもいいのかな?」
 ふうん。男は軽く息を吐いた。
 そして腕を組むと、未だに視線を合わせようとはしない少年を見下ろし、だから、と言った。
「それも、個人がどう思うかだろう。……信じたいんだったら信じればいい。信じれないと思うのならば、信じなければいい」
 さっきの答えと同じだよ。
 少年は、固まっていたからだをわずかに動かし、首だけで男の方を振り仰いだ。
「……信じてもいいのかな」
「お前がそうしたいと思える相手なら、いいんじゃないのか」
 そう。
 少年は再度首の位置を元に戻し、そう、と二回呟いた。
 男は顔を顰めると、そんなことを聞くために、わざわざ俺を呼んだのか、と呟いた。
「とんだ足労だった、全く」
「……それは、どうも」
 少年のくつくつと笑う声が聞こえる。
 椅子ごと回転させて彼に向き合った少年は、最早何時もの様な傲岸不遜な笑みを眼にた たえていて、先程までの不安定な様子は微塵も感じ取れなかった。
「ご足労賜りまして、恐悦至極に存じます」
「日本の時代劇か、この馬鹿」
「馬鹿だよ、そう。僕は馬鹿だ」
 さらりと返された言葉に、一瞬男は声を詰まらせた。
 その台詞は、少年にはとてつもなく不似合いな台詞だった。
 その表情を面白そうに見やって、少年はにこりと笑った。
「だから世界って面白いんだと思わない?」
作品名:この狭間に生きるもの 作家名:七生