ボトル・オーシャン
喋っていた。
そこは影に落ちている筈なのに光に満ちているように俺の目に映る。あたたかな光は普段目にすることのない埃をちらちらと輝かさせた。
その家は植物が生い茂っていて、どこかしら空気が周りより綺麗だと思わせる。深く鼻でそれを吸い込むと、アールグレイの香りが混ざってなかを冷たくした。
俺は目の前にある紅茶を当たり前かのように飲み、味わい、彼と喋っていた。
彼は優しかった。それはお互い名前を知らなくてもわかる。彼を纏う雰囲気が優しさに満ちていた。彼と俺が出会ったのはほんの三十分前だ。
三十分前、俺はいつもの癖でふらりと誰かの家に転がり込んだ。歩き疲れたせいか、昨日は飲まず食わずか寝不足だったのか、理由は忘れた。いつもの癖である。気にすることなぞ何にもない。その家は名も知らない小さな丘にぽつんと建っていて、そこからは海が見える。適当にうろついていると、彼があらわれた。
「お茶でもどうかね?」
「じゃあお言葉に甘えて」
お互い警戒心などさらさらなく、俺は緑が生い茂る庭に導かれた。植物が造り出した屋根の先に、海が見える。風が優しくそよいで、すべてを揺らした。ここは優しさに満ちたたったひとつの世界なのだろう。珍しいな、と心無し穏やかな気分になる。世界なんてきっと同じものだろうに、ここはどこか浮世離れしている。日常から切り取られた日常。俺ははさみを連想した。まあるい切っても痛くない優しいはさみ。
「それは鋏じゃないだろう」
「だろうね」
俺と彼は一口、紅茶を飲む。年老いた彼は皺をたくわえた白い肌に、ふわふわとした金髪と、時折ちらつかせた訛りから俺の故郷の人間と同じ特長を持っていた。俺はその故郷の名を口にし訊ねたが、「昔のことなんざどうでもいいだろう」と言われて終わった。その口調は始終穏やかで、そのくせ他人に眠気を覚えさせることはなく、俺は彼と話すことで暫く、世界を奪われた。
実に他愛のない話だったのだろうか。彼の意識の海で暢気に泳いでいた。いまとなっては全く思い出せないのだが、一つだけ、覚えていることはあった。
「私はね、海が見たいのだよ」
「本当に夢のある話だね」俺はあるバンドの歌詞を思い出す。「夢はつかみとるためにあると、知れば夢じゃなくなる」全くその通りだ、と思った。
彼は何も見ていなかった。はじめは眼鏡を掛けてあったせいで気づかなかったが、閉ざされた瞼に失敬して捲ったところ、彼には文字通り目がないということがわかった。
「ある日世界が嫌になったんだ。ずっと前からかもしれない。世界が嫌になって、まずそれが自分の目に映ることが嫌になったんだ。だから目をとった」
「どうやって?」
「昔のことなんざどうでもいいだろう」
「でもアンタの話していることは昔のことだ」
「じゃあ忘れた」
「それならそうと言えばいいじゃないか」
毒づきながら、もしかしたら俺とこの人は案外似た者同士かもしれないと思っていた。自分のプライドは無意識に言葉に隠して、バレてしまっても適当な言葉で隠す。何てご都合主義な。
ごとん、と音を出してそれなりに年数のあるテーブルに彼が置いたのは壜だった。俺はへえ、と溜め息を漏らす。
「律儀だねえ」
それには二つの眼球が入っていた。その持ち主は言うまでもない。それを見て常軌を逸した不気味さを覚えて、一瞬寒気が走ったが、それは本当に一瞬の出来事だった。綺麗だと思った。
その瞳はやはり透度のあるエメラルドグリーンだった。俺の故郷の人間の瞳だ。再び故郷の名を口にし尋ねたが、返された答えは同じだった。逆にお前の故郷はどんなところだ、と尋ねられた。
「知らないよ」俺は当たり前のようにその質問に答えた。
「俺、気づかないうちにここに来たんだ」
「別にここに来るまでの経緯を聞いているわけではない。お前の故郷はどんなところか、と聞いているのだ」その口調は少し強かったが、彼が優しいものには変わりなかった。
うーん、と少し唸ってどう答えるべきか考えた。すると彼は「ありのままでいいんだよ」と、慈しむかのように言った。俺はそれに従った。
「俺さ、いつのまにか故郷から出てて、歩き続けていたんだ。疲れて金があるときはどこかに泊まったり列車に乗ったりしたこともあるけど。それが餓鬼のときからだったから全然覚えていない。故郷のことは図鑑で知ったんだ」
「図鑑?」
「色んな国や地方の人間の特色とか色々載ってあるんだ」
「それはすごい」
それは心底驚いたように見えた。口と口調からしか表情は判断出来ない。彼は続ける。
「そんな本、読んだことがない」
「結構出回ってるけど?」
「そうか・・・」
暫く彼は言葉を濁し、「この世の本は全部読破したつもりだったのだが」と告白した。俺は失礼だと思ったがどうしても笑わざるを得なかった。「まるで俺みたいだな」
出会った瞬間からこの予測はしていたのかもしれない。いまでもそれが正解なのか不正解なのかはわからない。そもそもそういう二極化というものはどうも自分らしくないと思っているからはじめからそんなことどうでもよかった。答えなんぞはじめから求めていない。確信なんてする必要性はない。ただ、俺と彼があまりにも同じだったから、行動を起こしただけだ。根拠という言葉は無理矢理消した。
はじめ彼は嫌がった。
「そんなことする必要性なんぞない」
俺は彼の手を半ば強引に引いて、歩いている。彼は歩かされている。
「必要性なんかなんてはなからねえよ」心無しか少し暴力的な口調になっているのには気づいていた。要するに嫌悪ってやつだった。自己嫌悪。「俺の気まぐれだ」
「私はお前の気まぐれに付き合う気はない」
「ごめん、俺の気まぐれに付き合ってくれよ」そして俺はあるバンドの歌詞を呟いた。「足は、駆け抜けるためにある、と知る奴だけが勝てる」だから駆け抜けようよ。
彼は少しの間黙り、「仕方ない」と言って微笑んだ、ような気がした。
目的地に近づく程に潮の匂いが強くなった。吹き荒れる粘りけを持った風が強い。固い地面はやがてさらさらしたものになった。目の前には春の海と、陰鬱な灰色の空が広がった。俺と彼はただ立ったままだった。
俺は脇に挟んで持ってきた壜を砂の上に置く。それは少し砂に沈んだ。蓋は案外開けやすかった。俺はひとつ、眼球を取り出す。それはとても冷たくて、生気は伝わらず、そのくせ柔らかく、俺の手のひらの上で転がった。まずは彼の右目瞼の皮膚をなるべく優しく捲り、眼球を元の位置に戻す。彼は拒んだりはしなかった。もう片方も同じ動作で戻した。彼は微動だにしない。
「確かにこの世界は嫌だけど、俺はまだ見ることが出来るよ」
未だに閉ざしたままの瞳で彼は問う。「なぜだ」
「まだ具体的な理由が見つかっていない。それだけだよ」俺はまなじりが緩むのがわかった。
「そうか」
「どうだった?世界は」
そこにはしかと前を見据えた瞳を持った何十年後の俺がいた。
「やはり変わらない」
「どこらへんが?」
「俺が教えると思うか?」
「うん、わかってる」
俺はその時、沈みゆく夕日と、空が美しいと、初めて思った。なんてありきたりな。
そして、浜辺には俺と、遠くに見える数羽の鳥と、壜だけがあった。