六日月の兄弟 後篇
声の主は四十代半ばながら油照りする坊主頭をゆっくり左右に振り、兄弟それぞれに視線を送った。
「安国寺殿」
安国寺恵瓊は毛利家に仕える外交僧である。彼の実家の安芸武田氏は元春と隆景の父・毛利元就に滅ぼされたのであるが、彼が弟子入りしていた京都東福寺の恵心和尚に毛利家が帰依していたことから、恩讐を超えて毛利家のために奔走している。
「まず拙僧が羽柴殿の許に使いし、止戦の条件を議した上で高松城に入り、清水殿と話し合おうと思いまするが如何」
抗戦を主張していた元春は沈黙し、隆景は大きく頷き、輝元に向き直った。
「恵瓊殿にお任せするがよろしいかと」
輝元は依然、青ざめた頬を軽くふるわせていた。そしてよろしきように、と小声で言った。
この時、再び兄弟の視線が交錯した。が、そこには先程の激しさはなく、一瞬何かを確認するかのような気配のみがあった。
お二人はここで安国寺殿がでてこられるであろうことを正確に予測しておいででした。
しかも、お二人が困っている”であろう”ことを汲み取った上で立ち上がる、と。
安国寺殿はお二人の立場では出来ないことをするのが役目でした。
それは 清水宗治殿に腹を切らせること。
羽柴殿としても主君の織田右府様の手前、城将の首を求められるのは当然のこと。ですがこれはお二人にはとても飲める条件ではありませぬ。
それを承知の安国寺殿が、独断で清水殿に切腹を迫ったのでございます。
清水殿は、自分の首一つで皆が救われるなら、と快く、かつ潔く切腹して果てられました。
これもすべて・・・・お二人の予測通りのことであったのでございます・・・・・
清水宗治が切腹して双方撤退の段取りが決まった六月六日の夜、雑賀衆頭領・鈴木孫市から驚くべき密書が届いた。
織田信長、本能寺にて討ち死にす
この報せを受け取った元春は、撤退してゆく羽柴軍に向けて追撃準備の号令を発た。 暗い目になっていた毛利の兵たちは、士気が一時に騰がり、咆哮した
「さすが元春様、織田信長の首と天下を狙いにまっしぐらじゃ」
「これで御家の面目も立とうというものぞ」
元春の陣の動きを知った隆景は、自ら元春の許に向かった。
「ご無用でござる」
静かな、しかし反論は認めない、という語調の隆景に、満面を朱に染めた元春は激しい無言で応じた。
「すでに羽柴秀吉とは和の誓が成立しております。ここでその背を襲うのは、毛利の信義を地に堕すこととなりましょう」
この光景を見ていた毛利の武将たちは泣いた。元春の無念、隆景の苦しみを慮って。そして彼らは家中にこの話を広めてゆくであろう。聞いた者は、主戦論者であっても隆景の苦悩に思い至らぬ筈がなく、和平論者であっても元春の勇断に血が沸いたであろう。
一人、また一人と武士たちが去り、高松城を見下ろす元春の本陣の陣幕内に残ったのは元春と隆景の二人だけになった。
「嫌な役回りを押し付けてしまいました。申し訳ありませぬ」
「いや、又四郎こそ臆病者といわれかねぬのにのう。すまぬ」
元春は弟を呼びなれた名で呼んだ。
「私には似合いの役でござりまするゆえ」
「しかし口惜しいことではある」
元春は弟を振り返らず、静かに言った。万感を込めたこの言葉に対して、隆景は何も言えなかった。
万に一つも追撃という選択肢は無い。これは幾百年考えても変わらない。その変わらない自分が、今宵の隆景には疎ましくもあった。
だが、兄は違っているのだろうか。もしかすると違う風景が垣間見えるのだろうか
「同じよ」
やはり元春は振り返らなかった。
「又四郎と同じ、踏み出せぬ。ただその踏み出せぬ己と何かが口惜しい。又四郎と俺の違いは、これを口に出すか出さぬかだけだ。出す分俺のほうが女々しい、ということだ」
先程までの血の色は失せ、青く表情を無くした顔で元春は六日の月を見上げた。
その月には利鎌の鋭い雅もなく、上弦の、闇を半ば包んだ芳醇さにも至らない。ましてや総てを手にしたかのような十五夜の豪奢な輝きには及ぶべくもない。
「これが俺の分際か」
何処かに心を置いてきたような兄の呟きを聞くと、雫がひとつ、弟の足下に音も無く落ちた。
追撃したところで得られるのは羽柴殿の首一つ。その先に立ち塞がる無数の敵に倒されることをお二人は見抜いておられたのです。
ですが戦う構えを見せておかないと、毛利家情なし、と見られて家中に叛乱の火種を抱えることもございます。ですから元春様がその姿勢を見せ、隆景様がそれを抑える役割を演じられたのです。
お二人はいつも呼吸を合わせ、毛利家の危機に立ち向かわれました。
ですがその二人舞はいつも、風に吹き消されようとする蝋燭の灯を身体を張って守る、というものでございました。
私は一度、一度でいいからお二人の、雨を呼び嵐を呼ぶような舞を、天下に向かって披露していただきたかった・・・・
あ、これは失礼・・・歳を取るとどうも涙脆くなりまして・・・
今宵六日の月、三日月より優しく上弦より逞しい。これもまた風情でありますなあ。
では、おやすみなされまし・・・・
了