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足に鎖をつけて踊る

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『足に鎖をつけて踊る』

 ニーチェという哲学者をご存知か? 彼は、キリスト教的・民主主義的倫理を弱者の奴隷道徳とみなし、強者の自律的道徳すなわち君主道徳を説いた。
 彼の考えた「超人」思想は不幸にもヒットラーのファシズムの支柱にもなってしまったが、同時に数多くの箴言を後世に残した。彼の超人思想はあまり好きではないが、箴言は傾聴すべきものが多いと思っている。その一つにこういうのがある。『人は足に鎖をつけて踊る』と。自由だと喜んで踊っているが、実は目には見えない鎖に縛られているという意味である。
 誰もが、鎖をつけながら、もがき苦しみ、ときに壁にぶつかりながら躍り続ける。

 今でこそ、高い評価を得ていますが、作家のバルザック、画家のゴッホ、生前、彼らは狂人のごとく扱われ馬鹿にされてきた。ある意味、鎖をつけながら踊り続けた。そんなふうに思える。
 
 バルザックは『人間喜劇』という名作品を残したが、彼の歩んだ人生がまさに喜劇そのものであった。
 よほどひどい文を書いていたのか、パリの大学を卒業するとき、教授に「作家だけにはなるな」と忠告された。数え切れないほど仕事を変え、多くの女たちに恋をし、その多くはことごとく失敗した。彼は屋根裏にも暮らしたことがあった。数多くの職歴の中で唯一成功したのが作家であった。彼には、いろんな鎖がついていた。仏法でいうところの五欲、すなわち、金銭欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲、という足枷をつけて踊り続けた見本がバルザックではないか。
 大学時代、彼の作品の虜になったことがあった。悲劇的で、それでいて滑稽な人間を書かせたら、彼の右に出る作家はいないと思う。作品に出てくる登場人物はひょっとしたら彼の分身ではなかったか。むろん、そんな話を聞いたから『違うよ!』と言下に否定するでしょう。

 ゴッホはバルザックとは反対に欲望の少ない人間であった。一時期真面目に聖職者を志したように、彼の唯一の欲望は神の傍に近づくことではなかったかと思う。しかし、彼の行動は常に常軌を逸していた。その耳を削ぎ、それを女友達(娼婦)に送り付けたというエピソードが語るように、あるときから半ば狂人ではなかったと思う。狂人というのは精神の平衡感覚を失ったという意味だが。彼の中にある鋭い感性が、彼の精神の平衡感覚を失わせたという気がしないでもないが、天才ゆえの悲劇、そんなふうにも思えないこともない。
 彼の絵には、狂人とは思えないほど、不思議な静けさというものがある。都会の華やかな夜を描いた『夜のカフェ・テラス』という作品にさえ、ある種の静けさに溢れている。華やかに街の明かりの遥か上空では、星が宝石のように耀いている。ゴッホはどんな思いで、その華やいだ都会の夜を見つめたのか? 彼の胸の奥にあった寂しさは容易に想像がつく。ただ一人の理解者であった弟とさえときに衝突した。孤独をかみしめた夜はきっと数えきれなかったではないか。唯一絵を描くということが彼の救いであったような気がする。ゴッホの鎖は誰にも理解されない孤独という名の鎖であったかもしれない。その鎖に繋がれながら絵を描き続けたが、ある日自殺した。鎖の重さに耐えられなかったのか。

 僕はずっと人生の傍観者であった。臆病でいつも自分から手を挙げて何かをすることもできなかったし、また集団の輪の中に入るのも苦手だった。
 ある日、傍観者は何も生み出さないし、また踊りの輪の中に入らなければ、独りぼっちで、その存在さえ、誰にも悟られないことに気づいた。仮に死んでも。また、こうも思った。人生は阿波踊りのようなものだと。『踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らなそんそん』というように、踊らなければ、損するだけ。
 世捨て人なり、自分の足についている鎖をはずして生きようとは思わない。寂しい傍観者でいようとも思わない。できるなら、どんなに多くの鎖があろうと、踊りの輪に入りたい。疲れるほど踊りたい。
作品名:足に鎖をつけて踊る 作家名:楡井英夫