NIGHT PHANTASM
09.エンド・オブ・サイレンス(3/4)
「ジルベール、アンナが目覚めたんですってね」
扉を開けた人間に背を向けて、窓の向こうに映る夜空を見つめたままティエは特に何の感情もなしに呟いた。
喧騒の中では届かないであろうその声は、音どころか気配も希薄なこの館ではすんなりと通る。
ぱたり、と扉が閉まる音の次に返事が続いた。
「うん。傷を看たけど、腹部は見事なもんだ……傷痕一つない。まったく、どんな化け物とやりあったのかと思うとぞっとするよ。素人ができる業じゃない」
「教えてくれなかったの」
「え?」
ティエのつっぱねた様子に、思わずジルベールは間抜けな声を発してしまう。主語を欠き意図が読めない発言は、続きを待つより他になかった。
いつもの黒いドレスに、後ろで絡められた両手。儚い月の光に照らされる夜の主は、言葉にできない美しさや気高さがある。
同じ人間ではないことを、ジルベールはその立ち姿一つで思い知らされた。沈黙は冷気に変わり、部屋を満たす。
「アンナが目覚めたこと、ルイーゼは教えてくれなかったの。二人で顔を見せることもなかった、代わりにあなたが来てしまったわ」
「邪魔だった?」
「ええ」
素直ではあるが正直ではないティエの、思わぬ本音を聞きジルベールはこみ上げてくる笑いを必死にこらえた。
夜の眷属としての迫力を見せつけた直後に、この発言。正直になる努力でもしていたのだろうか、これだからティエという存在は面白くも愛しい。
抱きしめてなぐさめてやりたい、そう思ったがそんなことをした日には抵抗され大怪我を負いかねない。行動しすぎては、こちらが痛い目をみる。
機嫌を悪くしているお嬢様を刺激しないように、ジルベールはそっと距離を詰めた。
「まあ、拗ねなさんな。そんな悲しいことばかりじゃないぜ? 私が部屋を訪れた時、アンナはまず何て言ったと思う?」
「知らない」
「マスターは大丈夫か、だってよ。ルイーゼがいたけど、あいつもアンナのそばにいてお前をずっと守ってたわけじゃないからね」
確かに、チェコから帰っての数週間の間、ティエはルイーゼの力をほとんど借りなかった。度々ハンターが訪れたが、そのたびにカンを取り戻すついでにと全て片付けた。
双子の師匠であるティエが、たかが数人の『ごみ』を相手に劣勢になるわけがない。守るものは多かったが、館に入られなければどうということもなかった。
「……」
先日アンナが受けた顔の傷は、おそらく痕が残るだろう。レンフィールドの配慮の足りなさを思い出すたびに怒りが湧き上がってくる。
だが、それもしばらく耐えればどうでもよくなる問題だ。
事を起こすのは時が満ちることも大事だが、早いほうがいい。アンナの傷が治った頃に、エルザという名の使者がやってくることだろう。
ナハティガルを再起不能にしてしまえば、この祈りの家にも安息が訪れる。
娘達も、同居人も、夜は襲撃者を警戒することなく眠ることができる。ティエの望んでいた生活が、静かな毎日がもう目前まで迫っていた。
いつかジルベールにだけ打ち明けた夢だった。
眠くなるほどの平穏に包まれて、ゆっくりと老けていきたい。時間が止まってしまったかのような緩やかな空気の満ちるこの館で、かわいいとしつきを過ごしたい。
病気等でいくらでも変わるが、単に年齢だけを考えれば老衰で一番に死ぬのはジルベールだろう。
その時は、娘二人と一緒に最期を見守ってあげたい。夢があればかなえてあげたい。望むものはなんでも与えてあげたい。
「お前さ」
「うん」
「最初、私の血を吸おうと路地裏に連れ込んだはいいけど、言葉を盛大に間違えてたぞ」
「そうだった?」
「あれ、何度か聞いたことがあったから知ってる。チェコ語だよ。それで私がドイツ語はわかるか、って聞いたら勘違いしてるのに気が付かなくて間抜けな顔してやんの」
「仕方ないわ。だって、覚えたけれどドイツ語を喋る機会なんてほとんどなかったのだもの」
二人が出会ったのは、人にとっては遠く、吸血鬼にとってはつい最近の冬のことだった。
それから同居することになったいきさつは、二人とも覚えていない。ジルベールにとっては変な吸血鬼、そしてティエにとっては変な人間。互いがそう思うことが、やけに同調を促したのかもしれない。
心を通わせ、いつしか人生の伴侶のようになっていたジルベールも、すぐに死にゆく。
人間である以上は、避けられないさだめだ。出会った頃と変わらないティエに嫌味の一つも言いながら、そっと最期を迎えるのだろう。
だが、その瞬間は二人にとって恐れるべきことではなかった。
「ずっと、一緒にいてくれるって言ったわよね」
「いるよ。死んで体がなくなったって、お前が一人になったって、ずっとそばにいる」
「好きなの? 私のこと」
「ば、ばか。変なこと聞くな、気持ち悪い」
「いいじゃない。好きなら好きと、口に出して言ってごらんなさいよ。じゃないと何も伝わらないでしょう?」
そしてジルベールの次は、ティエにとって愛しい娘達――ルイーゼとアンナも、死ぬことだろう。つがいが死ねば残りも後を追うという話がある。
それが真実とすれば、二人はそう距離をあけずに揃って死ぬだろう。その時、看取るティエを見て二人はなんと言うだろうか。
言葉なんていらない。見つめてくれるだけでいい、そしてその後に独りになっても、もう悲しい孤独に埋もれることなんてない。
三人の面影をなぞりながら、ゆっくりとこの館でティエも、生を閉じたい。それが、ずっとずっと描いていたティエの夢だった。残されるのではなく、体を失ってもなお三人はきっと自分のそばにいてくれる。変わらぬ笑顔で励ましてくれる。幸せという檻の中で、そっと眠りたい。
そんなティエは、二人の決意に気付くことができなかった。
歯車は連鎖的に噛み合わなくなり、最終的には壊れてしまう。その絶望が、館に産声もなく生まれた、そんな夜だった。
作品名:NIGHT PHANTASM 作家名:桜沢 小鈴