小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

NIGHT PHANTASM

INDEX|29ページ/76ページ|

次のページ前のページ
 

07.I'm here(4/6)



空気が、生きとし生けるものすべてを押し潰すような濃度で、この世界に満ちている気がした。
濃度の過ぎる酸素は、毒である。生きるために欠かせなかった友は、少し濃度を変えてみせるだけで命も危うくこちらを追い詰める悪魔になる。
まぶたを開けたまま、天井を見ていた。
しみが、汚れが、人の顔のように見える。笑っているのか、泣いているのか、怒っているのか。責めたいのなら、好きなだけ責めればいい。
「……」
自分が、夢から戻り現実という海に浮いていると気付くまで、ルイーゼは少々の時間を要した。
夢を思い出すたびに、胸の鼓動が早まる。やはり、過去を思い出す苦痛というものは忘れることより何十倍も自分を苦しめる。
だが、そんな苦痛ばかりではなかった。
アンナはまだ、眠っているだろうか。二段ベッドのはしごを降り、妹の姿をとらえるなりルイーゼの表情が驚きに変わった。
「アンナ」
「……」
「アンナ、やめろ!」
「……?」
ベッドに腰かけて、うつろなまなざしのまま、無防備に晒された白い手首にはナイフの刃が当てられていた。
ルイーゼにナイフを持つ手を掴み引っ張られ、わずかな反応を見せたがアンナはいまだどこを見つめることもなく硬直している。
弱弱しく、今にも壊れてしまいそうだった。
発見と反応が遅れていたらどうなっていたか、考えるだけでルイーゼの背筋を悪寒が走る。
「何してるんだ、アンナ……」
ナイフを取り上げ、アンナからは届かない位置に置きルイーゼは真剣な面持ちで問う。
両手の包帯をとくことすら珍しいのに、リストカットに走る姿などいつも一緒にいた姉でも初見だ。飢えているようにも見えず、片割れでありながらも考えが読めない。
遅れて、アンナはぼんやりと呟いた。
「夢を、見たの……」
「夢?」
「あの夜、家に怪物が現れたの。怪物が、父さんも、母さんも、私の心も、日常も、全てを奪っていったの」
「……」
同じ夢を見ることは、そう珍しいことでもなかった。
だが、妹を守るために強くあらねばと思い決めて生きてきたルイーゼと違って、アンナはあまりにも脆弱すぎた。
包むように強く抱きしめても、アンナは反応しない。ぴくりとも動かないまま、唇だけが淡々と言葉を垂れ流しつづける。かげりを生み出す明暗が、彼岸の光景を遠くに映し出していた。
「こうしていないと、痛みを感じていないと……自分が生きているのか、死んでいるのか、わからなくなってしまうの。今も思うわ。自分は、あの夜に死んでいて、それを忘れてさまよう亡霊なんじゃないかって」
「アンナ、もういい。喋らなくていい。この夢が本当であっても、確かめるすべは何もないのだから」
「……でも、その通りなのかもしれない。名前もなければ、帰る場所もないし、生きていた事を証明してくれる場所も人も、ありはしない。けれど、生きていることを証明してくれる人はいるわ」
それが最後の言葉だった。ルイーゼの体に、アンナの全てがもたれかかってくる。意識を失ったのだと察したその時には、外で静かに降っていた雨は止んでいた。


ルイーゼの言葉は、正論だった。
マスターである、ティエと出会った夜。それまでの命を捨て、ファンタズムと称される幽明に生きる存在となったボーダーライン。
だが、それを思い出したとて鍵は全て揃わない。
その事件がどこで起こったことなのか、つまり自分達の家はどこなのか。それがわからなければ、再び故郷の地を踏むことができない。
しらみつぶしにあたったとて、この広い世界。何百年かけても終わらない旅になるに決まっている。せめて、場所さえ特定できれば――踏み出すことが、できるのに。
「行って、どうなる?」
助けを求めるのだろうか。
もう、早いもので少なめに見積もっても十年以上が経過している。幼かった双子の面影を、覚えていてくれる人はいるのだろうか。
そして、マスターを裏切り平和なあるべき世界へと戻りたがっているのか。保護されて、よく生きていてくれたと抱きしめられて、その胸に泣きつけば今まで積み上げてきた罪は消える――そんなに甘いものではない。
たくさんの人間を殺してきた。
生きるために、そして、生き残るために。未来へ続く道を潰してきた。蟻の行列を阻むように、あるべき流れを打ち壊してきた。
「……」
答えを見出せず、ルイーゼはベッドに横たわる妹の寝顔を見た。先ほどまで静かに意識を失っていたアンナの表情が、苦しげに歪む。
両の手は白いシーツを力の限りに掴み、離さない。歯を食いしばり唸る声を聞くたび、ルイーゼは悔しさに震えた。
自分がもっと、強くあれたなら――この子を守ることができたのに。こんな汚い世界を見せずにすんだのに。
「世界の果てに逃げよう、アンナ……」
そう言って妹の手に触れると、壊す対象を探していたかのように手首を捕まれた。強く、ねじりちぎらんばかりの力がアンナの苦しみそのもの。
こうすることで少しでも楽になれるのなら、そうしているといい。私の骨を折ればいい。神経を潰してしまえばいい。血管をズタズタにしてしまえばいい。
「でもね、その前にすることがある。だから、苦しいだろうけれども、夢の続きを見ておくれ。そして、そのさまを焼き付けておくれ」
ベッドに寄りかかったままで、ルイーゼは自らの手首を締め上げられる痛みを感じながら、小さな声で歌った。
あの賛美歌を。
そうして再び眠りの世界に落ちるまでに、そう時間はかからなかった。


作品名:NIGHT PHANTASM 作家名:桜沢 小鈴