NIGHT PHANTASM
06.予感(2/3)
「……」
大扉の前に立ち尽くしたまま、ジルベールは一歩も動けなかった。もう、数十分は経過していることだろう。
見なくてもわかる。何よりも大事に思う親友のティエが、悲しんでいるのを。苦しんでいるのを。
救ってあげたい。力になれるのなら、喜んで力を貸す。独りで歩けないのなら、世界の果てまでも肩を貸して歩くこともいとわない。
だが、自分では駄目なのだ。
それができるのは、実の娘のようにかわいがっているルイーゼとアンナか、あるいはもっと遠く近い何かだ。
自分にできることといえば、何なのだろう?
答えを探しながら、ジルベールは静かに自室へ戻った。
「……日本、か」
数時間もの間考え、出た答えは『日本へ逃げること』だった。数年前からティエに隠れて探りを入れていたが、日本という狭い島国はハンターが他国よりずっと少ない上、拠点といえば上部下部共通の一つだけである。
吸血鬼という化け物の認識に疎く、よっぽどのことがなければ動かない。
そもそも、ナハティガルの上部はそのほとんどがイギリスに居を構えている。正式名称は英読みである、ナイチンゲールなのだ。
トップの吸血鬼も、英国に生まれ育った存在だという。あくまで噂であり確証は持てないが、違うと断定する要素もない。
そのトップが何を考えているかは知らないが、吸血鬼は世界規模で見るといないようでかなりの数が存在しており、そのほとんどがティエのように野良である。
ヨーロッパ内ならともかく、遠く離れた日本で息を潜め、おとなしくしていれば見逃してくれる可能性も出てくるのではなかろうか。
中国でもいい。だが、ジルベールの考えでは狙いはほぼ日本に絞られていた。
他にも手を焼かせる吸血鬼なんて、いくらでもいるはず。けしかけた分だけを殺すだけのティエなど、そんな中では善人だ。刑は何より軽い。
攻め方を見るに、相手も何も吸血鬼を根絶やしにしようというわけではない。
おそらく、ナイチンゲールという組織の手の届く範囲は問題児を潰し表舞台に非日常が混ざらないようにしているのだろう。
だが、逃避行に問題がないといえばそうではない。
まず、日本に渡る手段を考えなければならない。ティエの暗示能力はなかなかのものだ、だが、それを大規模に使用すればするほどナイチンゲールは目を光らせるだろう。逆効果だ。
裏ルートを辿り、少しずつ向かえなくはないが――うまく渡れたところで、ていよく新しい住居が見つかるかどうか。
「狙われる心配がないのなら、木を隠すなら森の中……に、なるのかな」
マンションの一室を、暗示をかけた人間に借りさせるという手が浮かんだ。それくらいなら、ハンター達も気付かないほどのささいな事柄だ。
偽の身分証を用意しておけば、平和ぼけの進む日本では危険がぐっと減ることだろう。
「あとは……」
最後の問題は、内部にあった。
ルイーゼとアンナだ。
敵とみなせば、誰でも殺してみせる危険因子。あの二人が、果たして平和というぬるま湯につかってじっとしていられるだろうか。
抱きつかれるだけで、絞め落とされるのではと身構えてしまうどころか、それだけでなく『やられる前にやれ』を実行しかねない。
切り捨てるにも、ティエが許さないだろう。彼女にとって、双子は目に入れても痛くない娘も同然なのだ。
相談を持ちかけるにも、あまりにも問題が浮き彫りすぎた。
ジルベールにとって、日本は逃げ場所でもあり母国であった。
両親はまだ生きているだろうか。幼い頃ともに遊んだ親戚の子どもは、もう大人のロジックに組み込まれていることだろう。
初恋の人がいた。
生きていて、運命的にも再会した日にはどんな顔をすればいいのか――わからない。
「そうか……」
ひとりごちる。
自嘲に満ちた笑みとともに、大粒の涙がつたい落ちた。
「私もまた、亡霊なんだな……」
生まれ育った国、日本に自分の居場所はどこにもない。誰も、自分が生きていることを証明できない。帰る場所なんて、ありはしない。
家を思い出して帰ったとして、親や家族が叱ってくれるならまだ自分も生者でいることができる。だが、何も言わずに蒸発した事実は、それ以前のなりふりからして故意のものとは思われないことだろう。
行方不明、出されるも意味のない捜索願。いつかその事実は色あせて、あの時の自分は『死亡』と認定され、世は巡る。
日本語を話せる東洋人であって、何になる?
ティエがもし日本に逃げると言い出した時、通訳として役に立つだけだ。生まれて過ごしてきた十数年間は、それ以外に何の意味があった?
だが、ジルベールがどう思い何を悲しみ泣いたとしても決断を迫られている状況には違いない。
このままでは、最悪の事態も考えられる。
どうすれば、いい。
どうしたら、いい?
作品名:NIGHT PHANTASM 作家名:桜沢 小鈴