宴と影―最終話―
振り下ろされた水差しは、音楽家に当たることなく、見えない何かにぶつかり、はじき返される。衝撃で床に倒れたベロニカは、少し離れた場所で水差しが割れる音を耳にした。
「あ、忘れていました――」
部屋から出ようとした足音が、子爵令嬢の元へ戻ってきた。
「大丈夫ですか、ベロニカ嬢。まだお体の調子が完全には良くなっていないようですね」
ベロニカは、小さな呻き声をあげながら、足音の主に顔を向けた。
「もう少し、ベッドでお休みになられたほうがよろしいでしょう。その前に、一つ質問に答えて下さいませんか?」
そう問いかける音楽家を見るベロニカの顔に、先ほどまで出ていた憎しみはどういうわけか消えていた。
目を大きく開き、口を少し開けたまま微動だにしない。
だが、真っ白になっていた頭の中は何が起きたのかを解明しようと動き出した。
(私は、この方に水差しを振り下ろした。でも、何かにぶつかって私は倒れた。そして、気づけばこの方の背には――)
音楽家の背には翼が生えていた。
透明で、輝かしい光を放っている、美しい翼だった。
これが、凶器を持った自分の前に現れた光の正体なのだろう。
何故、音楽家に翼があるのだろうか?
翼は急に生えてきた。まるで、音楽家の身を守るためかのように――。
いや、そうじゃない。
襲いかかった私を諌めるために、この方は自らの正体を現したのだ!
「メイくんを見ませんでしたか? 夜会が終わった後、急にいなくなってしまいましてね。もしご存知でしたら、教えてくださいませんか?」
そう問いかける音楽家に、ベロニカは惚けた顔で、はい、存じております、と答えていた。彼女の中で、男の存在は変化した。
この方が持つ、光り輝く美しさの前では真実しか言うことができない。
私の思い通りにしようなんてもうできない。
そもそも天使であるこの方を独占すること事態無謀なことなのだ。
だから、逆らえない。否、この方の言う通りにしたい。
ベロニカの心はもう、目の前の天使に魅了されていたのだった。
子爵令嬢の部屋から出た先生は、メイがいる部屋へと向かった。
背中にあったはずの翼は、いつの間にか消えてしまっている。
外側からしか掛けられない鍵を外し、扉を開けた。
中に入ると、ドレス姿のままのメイが箱に腰掛けたまま、こっくりこっくり船を漕いでいた。
すると、先生の中で一つの考えが浮かび微笑んだ。
(このままゆっくり寝かせてやれば、のんびりと夜空の散歩ができるな)
そして、足音を立てないように外へ数歩進んだ。
「先生、どこへお出かけになるのですか?」
その声に、思わず先生は足を止めた。
振り向いた先には、見慣れた厳しい顔の少女が、姿勢よく立っていた。
「先生、お手紙が届いております」
伯爵家の夜会から数ヵ月経ったある日の午後。
メイは、先生の仕事部屋を訪れていた。
「ありがとう。誰から?」
ピアノの椅子に座っている先生に、メイは手に持った手紙の束から、一通ずつ送り先の名前を丁寧に読み上げていった。
そして、最後の一通になると、読む前に彼女はため息をついて、少し強めに言った。
「それと、――ネメキス子爵令嬢・ベロニカ様からです」
「……またか。手紙を度々送ってくるところは、父親似だね」
あの夜以来、子爵からの専属音楽家の依頼の手紙が来なくなった。
しかし、今度は令嬢からの熱烈なファンレターが送られてくるようになったのだ。
最初の彼女からの手紙には、父親に先生を独占しようとする計略を二度としないよう頼んだことを始め、夜会の日に自分がしてしまったことの謝罪、そして純粋に先生と音楽を愛する一人になるなどのことが書かれていた。
「やっぱり、翼出したのはまずかったかな」
「翼って……。先生、まさか彼女の目の前で――」
「故意じゃない。勝手に出てきてしまったんだ。どうやら、私の身に危険が迫っていたらしくて、バリアを張ろうとして翼が……」
「そうですか。――これで、謎が解けました。ベロニカ様からの封筒の裏側に『愛しの音楽の天使さまへ』と書かれていた理由が」
メイがジロリと先生を睨むと、先生はそれを避けようとピアノに向き合う。
「ベロニカ嬢は何を勘違いしているんだろうね……。私は、不思議な翼を持つただの音楽家なのに……」
と、先生は鍵盤に両手を乗せ、いくつかのキーを押した。
「ありがとう、メイ。もう行っていい。私は依頼された曲作りに戻るよ」
「分かりました。時々見に来ますから、集中してくださいね」
そう言い、部屋を出たメイは、がっくり肩を落とした先生の姿を見てドアを閉めた。
時々見に来る、という言葉が先生へのダメージになったらしい。
先生の様子を思い出し、メイは小さく笑うと自分のやることをするために、早足で廊下を進んだ。
―― 終わり ――